卒業以来、”駆け出したまま”の気持でいるとき、ふと”駆け出し時代”を思い出させることになってしまった。
昭和18年9月卒業という年は、”学窓から軍隊へ”という時代であった。
佐世保海軍病院雲仙分院での生活、終戦処理、そして、紀州田辺の復員収容部での検疫官としての仕事。
めまぐるしく変わる世の中に、当時満25歳の多感な青年であった。
”これから大いに勉強しよう、一切の出直しだ。一生の研究、勉強の連続だ”と20年9月25日の日記に書いている。
転入もままならない東京に、ともかくももぐり込むことができた。しかし”パ−ジ”の身で勉強は容易ではなかった。相談の先は、慶應義塾大学医学部での補導会の上田喜一先生(助教授)であった。 「君が手伝ってくれるなら、気心もしれているし、大変ありがたい」と。
「将来への見通しは何もついていませんが、今出直して、何物かを身にしっかりつけておきたいと思います。経済的にどうしても立ち行かなくなれば、内職を探そうと思いますが、なるたけ雑業に時間をとりたくないと思います」と述べている。
信濃町から三鷹への教室移転。
ある日の抄読会で、原島進先生が次ぎのように述べている。
「日本の博士号は科学の発展に寄与したものに対して与えられるが、米国などは独立して研究し得る将来性のあるものに与えられることになっている。皆さんは自分で自分の問題を発展し、解決してゆく態度であってほしい。教授の考え方に一致しようとするのでなくて一向にさしつかえない。その方をむしろ歓迎する。そしてその出発はメトデイ−クであってほしい」と。
多くの”俊英”をかかえていた教室で、見聞きしたことは自然身についたことであろう。
上田先生が病気になられ、私のテ−マはビタミンから原島先生のCOに変わった。そして”COはHbに対してO2より300倍も親和力が強い”の一行にとりくむことになる。
世界中の文献を読みあさり、実験した。
当時の日比谷にあった文化センタ−が”昭和の出島”であった。
血中COHb分析に関するVanSlykeの原著論文など手書きのノ−トは、わが駆け出し時代の記念品である。
そして新聞にのった”カット”の切り抜きは35年前のできごとを、昨日のことのように思い出させてくれるのである。