草間良男先生のこと

 

 全く偶然のことから、草間良男先生(慶應義塾大学名誉教授)の生前の肉声をテ−プから聞くことができた。内容は未発表のものとのことであった。

 「それはこういうことなんです。8月15日講和条約を結んで、それから9月の2日か3日頃、マッカ−サ−がのりこんでくるというので、早急に司令部をたてなければならない、東京に。その時の司令部の仕事としては、日本の政治、経済、それから教育を根本的にたて直そうという基本方針があって、一体、医学教育をどこにおくかということは、司令部内で随分問題にしていた」

 「厚生省の方はほとんど手を入れるところがない。よかったんだね。・・・一つこいつを改革していかなきゃならないところがないんだよ。ただ教育なんだね」

 「ところが医学教育とその内容ときたら実にどうにもならないということに気付いちゃった。やろうじゃないかというけれど、どうやっていいかということは、サムスには全然わかっちゃいない」

 「どういうようにいとぐちをひろうということを、向こうはちゃんと調べてきている。だから僕のところには9月1日か2日頃に向こうから少佐と大佐がやってきた」

 「君、草間か、というから、そうだというと、家に入っていいか、というから、入りなさいといって、あそこの僕の部屋に座らして、話をして、その問題といえば、一体、医学教育の現状を、これは随分細かく聞いた」

 「それが週に二回づつやったね。そしてその結果は、もう11月になると僕の部屋は寒くてやりきれない。何の暖房がないから。向こうも困っちゃって、こちらも困っちゃって、そして司令部の本部で会議を開くことに決まった」

 「で、その時に、もっと人を入れようではないかというので、人をふやしたわけです。その時の第一回の顔ぶれというのは、官学から田宮猛雄さん、大阪の木下良順、それから私学では西野忠次郎先生、それから慈恵の高木喜寛、僕も勿論入って、それから文部省から連絡員として松井正夫という大学教育課長が入って、それから厚生省からは有名な勝俣稔君で、向こうの考えでは、医師会というのが参与しなければならんというので、僕の弟があそこの書記長をしていた。これではじめたのです」

 「それでまあ、八人がおるもんだから、座長を決めようというので、投票したんですよ。投票したら僕がなった。で、座長になる。で、年一回ずつ改選することで、投票し、座長を決めたんですね。毎回僕がなっちゃって、そしたら七回継続した。

 その間に現状を調べようといって、73というのは多すぎるんだ。これを三分の一位にしなければならない。第一、教育者がおらんじゃないか。ね。いい学校は・・・には立派な先生がおられるけれど、その他にいたっては、教育なんては問題じゃないんだから。これは当然整理しなければならん。整理するのには各学校を視察し、そして適否を決めなければいけないし、というので、医科大学がどういう組織で、どういうファンクションをもたなければならないかを、そこで決めたんです」

 「そこで文部省に医学視学委員ができたのです」

 「ですから、この視察は、一月頃から三月頃まで、全国みました。手わけをして。本当にひどかったもんだ。受ける方は怖かったらしいね」

 「僕が選挙でチェヤ−マンになったでしょう。チェヤ−マンになったから、僕はサムスのところへ行ったんですよ。僕はチェヤ−マンに選ばれたけれど、自分が受けていいかどうかといことは、あなたに決めてもらわねばいかん。僕がチェヤ−マンになったら、さあ僕を攻撃して、そして、あることないことをあなたの耳に入れて、僕を失脚させるような運動がきっとでてくるんだ。従って、その槍玉にあがって僕がやめるような、そんな不体裁なことは僕はしたくないんだから、僕は今、あなたの前で、不正はせん、いいことだけは必ず実行する。従って、どんなことがあなたの耳に入ろうが、それは、あなたが僕のことを信頼して仕事をさせるかどうか。あなたの決心を僕は知りたい。その上でこれを受けるかどうか決めるつもりだ、といったところが、もう自分は日本にきて三か月か四か月なっているから、日本人のサイコロジイは大体わかてきたんだと。従って何といわれようととも、教育に関しては、お前の思う通りにやってみい。ね。さあ、それを受けたから僕はもう、思う通りやったわけだけれどね」

 と、戦後の医学教育改革の原点に係わる内容が語られていた。その他、戦後の海外からの教育者の来日、医学図書につぃてのことがあったが、戦後日本の医学教育についての貴重な証言の数々が述べられていた。

 同じテ−プのおわりの部分に、今は亡き原島進先生が「先生を前にして言いにくいんだが、しかし今日の話で何回もでたと思うのですが、先生ほど潔白な方はいないということなんです。潔白というと何となく変な言葉ですけど、サムスとの話にあったように、ああいう思想、考え方をもっておられる。僕は得をしました。そういう意味で、僕にとっては一生のいい先生であったと思います。あれだけ教えてくれただけでも」と話されていた。

 

 草間良男先生が戦後の医学教育の改革に深くかかわったことは事実である。

 その際、「草間はサムスとアメリカで同級で、アメリカをかさにきて」とは、巷によく聞かれた話であった。しかし、草間先生がサムスと同じアメリカの医学校に学んだことはない。

 草間先生が、医学教育審議会のチェヤ−マンに選ばれて、どのように議事を運営し、その決定事項を実行されたかは、私にはわからない。しかし「医学教育審議会の提案というものが、殆どアメリカの考え方が基礎になった」という点については、このテ−プに語られていることから、また先生を直接知るものとしては、そのようには思えない。

 私には、先生が若き時代に学ばれたアメリカの風土にある、いわばアメリカ的合理主義とでもいうものによって、第一回の会議のとき、委員を前にしてサムスに述べた「プロフェッションと国民への誠に大きな責任」を思い、自ら信ずるところを実行されたのではないかと思うのである。

 

   (昭和29年長崎)        (昭和39年十和田湖畔)

 内容を原稿にし、テ−プと一緒に奥様に送ったところ、「夢中で読み返し読み返し」「仕事に対して情熱が燃えておりましたあの頃の主人をまざまざと思い出してなつかしくございました」と、お礼のお手紙を頂戴した。

 戦後40年近くたった今、医学教育を思うとき、草間良男先生らがなされた仕事をあらためて考えてみることが必要なことと思うのである。

日本医事新報,3071,73−74,昭58.3.5.)

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