久保田重孝先生は、私が生まれた大正10年に慶應義塾幼稚舎を御卒業になり、普通部、医学部と進まれたので、同じようにあとを追った私にとって、先生は小学校以来の大先輩ということになる。
病理と衛生と科は違っていたが、随分と親しくしていただいた。とくにという意識がないのは、先生はどなたにでも気さくにつきあわれたためではなかったのか。これが先生のもって生まれた本性とでもいうべきものであったのであろう。
戦後、東京で中毒学会の集まりが始まったとき、慶應の原島進先生の下でCO中毒の基礎的研究をやっていた私は、労研によく行くことになり、また研究会で先生と顔をあわす機会が多くなった。
そしてCO中毒の現場にふれる機会を与えて下さったのも先生であり、それが最も思い出深いできごとであった。
昭和24年2月11日上野発と日記にある。
行先は日本水素小名浜工場であった。そこの診療所で今仙台で開業しておられる今野正士先生にお世話になった。2月と7月と二回行くことになったが、調査のねらいは、慢性CO中毒への接近であった。
私の役目は、北川先生のCO検知管ができた頃で、環境のCO濃度を測定し、また工員の血中COヘモグロビン飽和度を、ヴァンスライクと自分で改良したピロタンニン酸法で測定することであった。労研病理にいた石津澄子さんはその他の血液検査を担当した。そしてこの時の仕事は、「某硫安工場に於けるCO中毒の実態調査について」の論文となって、労働科学誌に掲載された。
その時の結論は、軽度の一酸化炭素中毒の反復によっては、人体に著変があらわれないことを示しており、と書いているが、戦後の一工場のCO中毒の実態は記録に残せた。
今東京女子医大の教授をしておられる石津澄子さんと私は、二人とも独身で若く、学問だけに夢中だった。この二人を一つ屋根の下に残して久保田先生は先に帰られた。
「よく何もなかったな」と久保田先生は、いつもあとであうたびに笑いながら話された。
昭和28年5月仙台で第8回の日本産業医学会が開かれたとき、前年福岡の八幡製鉄所でお世話になった畑昇先生や元田紀雄先生、福岡労働基準局の労働衛生課長の小町氏と話をしておられた久保田先生の姿は私のカメラのかっこうな一場面であった。