小松富三男先生のスナップをはじめてとったのはいつ頃だったろうと思いながら、アルバムをめくってみたら、この写真がでてきた。
名古屋での公衆衛生学会のあと、信州大学で開かれた新八会に出席した時のことである。
私にとっては教授になりたての頃だった。
松本城からはるか大学をながめ、そのあと医学部構内を見学したが、各教室が建物を一つ一つもっておりその中の講義室も一つづつあって学生は時間ごとに他の建物に移ることや、火事を二回も出したので、至る所に防火十則がはってあった。衛生学教室にはペ−チカがあり、信州大学の名物となっていたCO吸入装置があった。これらは皆手元にある数々の写真からの思い出である。
私が慶應にいた頃CO中毒の研究をやっていた関係もあって、文献上小松先生を知ったのはかなり古い。今のように複写が簡単にきかない昭和22,3年の頃のことであるので、先生が満州医誌に発表されていた「パラジウム試験紙による気中酸化炭素の簡易定量法」をそっくり写した原稿用紙が今手元にある。又「血液中の酸化炭素定量法としてのピロタンニン酸法の改良」は私の学位論文に引用させて戴いた。これらの仕事は例の克山病の実地調査に直接たずさわっておられた当然の成果であり、信州へ移られてから信州心筋症へ発展されたこともうなずかれる。日本ではじめての「高血圧の疫学」のシンポジウムが熊本での衛生学会でもたれたとき、先生と一緒に登壇したことも同じような研究の道をあゆんだものとして良い思い出である。
・・・あの夜、上高地の小さな山小屋で夜をてっして盃をかさねたことも思い出される。北博正先生が「小松君は真面目なもんで、もくもくとノ−トをとっていたもんだ」と新六会発足当時のことをこの新参者に話されたことが耳に残っている。
若い頃の先生のことを知らない私には先生は衛生学の研究の先をあゆまれた”おじさんうさぎ”とでもいう方である。