”教授だけで野球チ−ムができそうな位に若がえった感じがします。今後の発展を祈ります”と乾杯の音頭をとった。
去る昭和56年6月17日新任5教授(解剖正村、一生化遠藤、二病理工藤、小児横山、二外小野)の歓迎会が中三で開かれたときのことだった。
今から20数年前、教授になったとき渡された野球のユニホ−ムに、何と”OIRAKU”とあったのを思い出す。”おいらくの恋”からのネ−ムだと思うが、まだ30歳代なのに”おいらく”とは、いささか抵抗があった。しかしKOと同じネズミ色のウ−ルのユニホ−ムは感じよく、教授だけで野球チ−ムができる位の若き教授団チ−ムに仲間入り出来たことが嬉しかった。
写真は、昭和34年6月17日丁度新しく整備された南塘グランドで、臨床基礎の教授対抗試合をやったとき記念にとったものである。この時OIRAKUのユニホ−ムを着ているのは大池先生と私である。荒川先生はヨハネスブルグであった。シビ・ガッチャキと同じように国際的に名のしられていた栄養失調症のカシワコ−ルを研究に南アフリカに行かれ、帰国後小児科医局のユニホ−ムの名前になったと思う。松永先生のはフリ−デであった。
佐藤煕先生、品川先生が先発投手であった。”佐々木−赤石の三遊間のコンビは教授にしておくには惜しいという学生の評判であった”と帷子メモは証言している。
この時のスコア−ははっきりしていないが、臨床勝利のうちに幕をとじたと教室日記には書いてあった。
南黒医師会と定期戦をやり、米内沢へも遠征した。三共レッドソックスという女子チ−ムともやりあった。教授だけで野球チ−ムができる、こんな教授会が全国どこにありますかと紹介し、自慢の記事を日本医事新報に書こうと思っているうちに、月日はすぎてしまった。
15年前アメリカから帰ってきたとき、野球とゴルフは、スイングが基本的に違うことをさとって、ゴルフのために野球から遠ざかってしまった。