佐藤四郎先生のこと

 

 先生が、弘前市医師会の副会長になられたのが、丁度私が教授になったのとほぼ同じ頃であったこともあってか、色々の会合でお会いするようになった。

 勿論、親子ほど年も違うのだが、いつも気安く、お会いして戴いたことを思い出す。慈恵・慶應ということもあったかもしれないが、又私が青森県のヨット連盟の会長を引き受けたこともあって、応援して戴いたこともあったのだろう。

 私にとって最も先生を印象づけたのは、弘前市医師会館の落成式の時のことであった。挨拶に立たれた先生は当然弘前市医師会といわれるところを、”弘前市体協”といわれた、ように私の耳に聞こえた。その時、すぐ前に座っていた武見太郎先生の顔が、一瞬ひきしまったのを思い出すのである。

 すでに息子さん達が立派にあとをつがれておられたこともあって、医師会のことより、先生ではなくてはならない体協の方に力をそそがれていたのではないかと思ったのである。

 何故、このことが私の頭の中にあるかというと、丁度、全く同じ内容のことがらを経験し、”熱意”という題で、日本医事新報に書いたあとだったからだ。

 ”もう日数がたったことなので、名前をあげても失礼にはならないと思うし、又ゆるして戴けるものと思う”と書いた内容は次のようなものである。

 弘前大学医学部創立20周年の記念式典の祝辞に立たれた岩手医大の篠田学長が、当然弘前大学というべきところを、岩手医大といわれ、それが、一回・二回・三回とつづくに及んで、私の心は別の方に向かっていたことを書いたのだ。すなわち、先生は岩手医大の建設のことで一杯で、日夜それに心身をくだいておられる。そこから出発したことで、そんな先生をもつ岩手医大をうらやましく思う、と述べたのであった。

 国体の選手団が西下する列車が、弘前駅を通過するときには、先生はいつも手まめに送りに行かれていた。そして監督さんに、何か、小さな包みをそっと渡しておられる、そんな姿を今も思い出すのである。

(尽して,倦まじ.佐藤四郎先生を偲ぶ,18−19,昭50.11.25.)

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