一人かけ 又一人かけ 一人かけ
弘前大学医学部の初代の教授が、時のすぎゆくと共に亡くなられてゆくことは、自然のなりゆきとはいえ、さびしいことである。
先生とは、昭和29年に衛生の助教授として弘前にきて以来のおつきあいで、色々とお世話になった。
教授会にでるようになって、はるか末席から、お顔を拝見していたが、九州大学の出身でありながら、副島先生とは又違った持ち味のある先生でやさしく、これも外科と産婦人科の相違かなと思ったりした。
そして33年にはもう先生を九州にお送りすることになってしまった。
その出発を前にした9月、かっぽう中三で教授会の送別会を開いたときとったスナップが、今は貴重な思い出を昨日のようによみがえらせてくれるものとなった。
写真は、では記念写真をと、三脚にストロボつきのカメラをつけて撮ったものだ。
前列手前から、中村勉、副島廉治、古賀康八郎、佐藤煕、入野田公穂、片桐主一、後列は槇哲夫、帷子康雄、諸富武文、山本耕一、照井精任、大池弥三郎、檜山登、臼淵勇、角田幸吉、そして一番手前はセルフタイマ−をおした私だ。先生方のお名前を書いておかないと、わからなくなってしまうのではないかと思う。時の流れというものは、そんなものであろう。
座席で正面に座っておられた先生方はもうこの世にはいない。しかし、シャッタ−をおした身にとっては、その写真をみていると、まだ何かを語りかけて下さっている気がしてならない。
先生が挨拶をのべられているときのもあるのだが、残念ながらメモはない。ただアルバムに”へへへへ”と書いてあるところをみると、先生独特の挨拶をされたと思われるのだが、その瞬間をとらえたことだけ思い出だされる。
先生が赴任されたその月に、公衆衛生学会が九州大学であったので、敬意を表しに教授室にうかがった。弘前とは全く違った御殿のような独立した建物の婦人科病棟の、これ又大きな教授室に、一人ポツンと座って迎えて下さった先生の姿は、フィルムにはない。私の頭にやきつけられた映像である。