夏季保健福祉活動の教育的意義

 

 社会医学とは、予防及び治療の、科学的基礎と個人的並びに集団的適用とを、人間の健康はその生活状態と相互関係にあるという見地から取り扱ってゆく学問である−−−−ルネ・サンド「公衆衛生の原理」(百石・田多井共訳)から−−−−

 夏休みに入ると、県内の町村へ保健福祉活動にゆく。こんなことを始めて今年で7年になる。参加する医学生、保健婦学生にどんな教育的意義があるのか、また住民に対してどんな衛生教育的意義があるのか、これが編者によって与えられた題である。

 

 私が日頃教室でつきあっている医学生の場合を考えてみよう。医学生は、一年に入学して、大体医学が発展してきた歴史をたどって勉強してゆくのである。解剖、生理、病理等と、いわゆる基礎的な学問をすませ、高学年になって病人に接し、臨床各科を勉強してゆくのである。日本の医学教育の現状では、人間を病人としてみている。さらに病人自身よりも、病人としての特色のある部分に興味があつまり、また病気の原因よりも、その分類をすることに、また病気を予防し、健康をさらに増進することよりも、今ある病気の処置をし、治療することに努力が向けられ、その病人が生活している生活環境や、病気の社会的要因について考えを広めることは極めて少ないといわなければならない。この現状が反省しなければならない問題点の一つである。

 そこで、私の専門とする衛生学では、これに対してどんな教育を考えなければならないか。

 衛生学はもともと、ギリシャ人にとって健康の守り神であり、理性に従って生活するかぎり人間は元気にすごせるのだという信仰を象徴しているハイジエイヤとう女神の名に由来する学問と考えられている。健康は物事の自然の規律であり、賢い生活を送れば健康にすごせ、健全な身体に宿る健全な精神を人々に保証する自然の法則を発見し、それを教えることにある。

 ところが過去数百年の間に、賢い生活を送って健康であるというむずかしい仕事にとりかかるより、でき上がってしまった病気を治してくれる人をたよりにするほうが、一般にずっとやさしかったために、医学はその要求を充たすために発達し、医学を教育する人も、学ぶ者も、医学とは人間の不完全さを直すことによって、病気を治療し、健康を回復させることだと信じ、世の中の人も、医学にそれのみを期待するようになってしまったのではないか。これが第二の問題点である。

 肉体的な痛み、精神的な苦痛、これらは、各個人にとっては実感的である。救いを求める直接的な動機になろう。しかしそのような、いわゆる病気といわれる状態がないということが健康であるということではない。もっと広い、肉体的、精神的、社会的に完全な状態が健康であるという考え方は、世界保健機構(WHO)の健康の定義にもられていることとか、日本の憲法の、また教育基本法の中に出てくる健康についての考え方であることはよく知られていることである。

 それでは、健康は何によって左右されているのであろうか。その人が親から受けついだものと、その人が過去から現在までに生活してきたあらゆる環境条件の影響を受けていることは間違いない。ところが医学はそこにあまり目を向けていない。例えば結核を例にとろう。熱や咳等の症状を訴えて病院をおとずれる人は、医師から、今までどんな生活をしてきたか、また今しているかについてはあまり聞かれないであろう。

 胸のレントゲン写真をとられ、肺に影があるからといって、結核と診断され、薬や注射の指示を受け、それだけで医師の仕事が終わってしまうのが大部分ではないだろうか。その人がどんな家にすみ、どんな食生活をし、どんな仕事をし、どんな経済的条件があり、その人をとりまくどんな人間関係があるかについてはほっておかれる。だが病人は、現実にはその人なりの生活の中に生きているのであって、それを無視することはできない。

 それでも病院へゆき、医師にみてもらう気になった人は救われる確率は大きい。本人も知らず、知っていても医学を利用できないでいる人々にとっては、すでにでき上がってしまった病気ですら、ほっておかれるのである。まして、病気になる前の状態については、誰も手をかしてくれないのが今の日本の姿である。わずかに予防衛生法規といわれるものがあるにはあるが。

 こんな問題点を考えると、医学生は(医師といってもよい)人々の生活を知らなければならないことは明白である。人々が、ね、おき、のみ、くいしている有様を自分でみ、はだでふれなければならない。日常生活において、人々が如何に賢い生活をしているかをみなければばらないのだ。

 夏季保健福祉活動で、医学生が、また保健婦学生が、各戸を訪問し、人々の生活している有様を知り、話しあいをしてゆくことによって、人々が何を考え、どう行動しているかを知り、健康を左右している条件をよみとる機会が与えられるのである。その条件をするどくみきわめどんな医学的技術を適用していったらよいかを知ることである。また教室でならった学問が、実地に修練できる機会でもある。医学生にとっては、今病人に薬をやり、注射をすることではない。将来一人前の医師になったときに、正しい医療のあり方について考える基礎がこの際与えられなければならない。

 青森市に生まれ、弘前大学に入った学生ですら、今まで試験勉強におわれ、実はわれわれのごく身近な農村の生活の実態など全く知らないのが実情なのだ。保健婦学生にとっては、将来の職場の現状を、学生時代の自由な目でみる機会が与えられることは必要なことであろう。保健婦こそ、本当に賢い生活とはどんなものかを住民とともに一緒になって考えてゆき、本当にはだにふれた仕事をしてゆくことになる人なのだから。

 

 医学生や看護学生を受け入れた町村の住民側にはどんな問題があるか。

 まず、病気とか健康とかについて一般の方々がどんな考え方をもっているかが問題となる。今や病気は神や仏や先祖ののろいでもないし、たたりでもないのに、そう思っている人が県内に少なからずいるのが事実である。医師や薬にたよったことがない、自ら健康をほこっている人もたくさんいる。さいわいに生き残ったと思われる人だけが健康を自慢し、そのかげに何万という生命(いのち)が失われ、現に失われつつあるということには気がついていない。無理もない話である。最低の教育すら受けられなかった人々が高年齢層の方には多いし、また中年以上に方は、誰でも、保健の”ほ”の字も教えられたことはない。あるのは自らの経験だけである。保健に関する知識については今の大人の常識は小学生にもおよばないのが現実なのだ。

 「改善された健康水準は、個人の知識ある行動にのみ基づいているのである。現在の健康知識が世界中に利用されるならば、数知れぬ生命がすくわれ、はかりしれない災害が避けられるのである」とは故ケネデイの言葉である。

 健康問題には多くの問題が含まれる。それを自ら考え、解決していかなくてはならない。昔のように、自分では何も知らなくても種痘を受けさえすれば、天然痘に対する免疫ができ、流行を防ぐことができた時代とは、病気の型も違ってきたし、健康問題は複雑に、また幅広くなってきた。

 日本の現状では、国としての国民に対する健康の世話は、目下縦割りである。厚生省、文部省、農林省、労働省等それぞれ自らの行政の系統を通じて国民の健康の世話をしようと役人は考えている。基本的な単位である各個人、各家庭が一つであることが忘れられている。この際、町村という自治体の単位としては、それをうまくまとめ上げる努力をしなければならない。保健と福祉とこの活動に名が二つかさねられたのも、もとをただせば住民の健康水準の向上にむけられた活動を、地域では一緒にやろうというところからでたもので、夏季保健福祉活動という名前が生まれたのである。

 この活動が機会になって、いろいろな社会資源の活用が考えられた、現実には多くの困難のある町村において、今まで放置されていたに違いない健康についての色々な問題が、一歩でも前進する機会になることを信じたいのである。

(県政のあゆみ,13,3−4,昭39.9.10.)

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