柳川昇先生にお目にかかり、直接お話をするようになったのは、先生が弘前大学学長になられ、私が大学の評議員になって以来のことである。
昭和44年8月1日付で、評議員併任が発令されたが、当時は”大学紛争”といわれる風が、ここ弘前大学にも吹きはじめた頃であった。
当時の新聞の見出しにでた出来事をひろってみよう。
”弘大学長に柳川氏”(昭42.12.9.)
”柳川弘大学長に聞く”(昭42.12.10.)
”弘前大学新学長の課題”(昭42.12.15.)
”本当にエライことになりました。こんな困難なときに学長におされるなんて”(昭 43.2.1.)
”柳川学長が初登校、学問的地位を向上”(昭43.2.7.)
”459人、晴れの門出、きのう弘大卒業式。職能に誇りを、柳川学長告辞”(昭43.3.16.) ”週間インタ−ビュ−、学長の生活と意見、「人間」再発見、これからの教育の責任”(昭43.3.20.)
”弘大、能研テストで集会”(昭43.22.19.)
”市中デモで撤回を叫ぶ、弘大能研テスト反対学生”(昭43.11.29.)
”弘大の能研テスト、中止を正式決定、学生側には一部不満も。”(昭43.12.5.)
”全学共民青系学生同士ぶつかる。数人かすり傷、弘大入学式終了直前”(昭44.4.11.)
”国立大入学式荒れる、学長告辞にヤジ、全共闘派、反対学生と衝突、弘大。”(昭44.4.11.)
”「ことしの弘大は荒れそう」と教授、学生対立、ますます激化。”(昭44.4.20.)
”弘前大、委員12名を選出、「大学研究委」が発足。”(昭44.4.22.)
”弘大全共闘、激しいデモ、初めて5人逮捕者。”(昭44.6.10.)
”弘大、ストに突入、教養、教育学部、教室入り口にピケ、実行委員、一部学生と口論”(昭44.6.20.)
”きのう、「一日スト」を決行、大きなトラブルなし、ほっとした大学当局、各学部もにも大学立法反対のスト機運。(昭44.6.21.)
”「大学立法」でゆれる弘大、他学部も反対闘争、ストをめぐり、激しい討論”(昭44.6.21.)
”教職員も初の共同行動、大学立法反対、弘大で全学集会開く。(昭44.6.22.)
”弘大全共闘、また教室占拠”(昭44.7.1.)
”弘大生がもみあう。7.1集会、市民1名がケガ。”(昭44.7.1.)
”全共闘系教室を無断使用、弘大学長名で退去勧告。(昭44.7.3.)
”きょうから第二波スト、弘大教育学部自治会。(昭44.7.4.)
”学部長クラスも参加、弘大大学立法反対デモ。(昭44.7.18.)
”弘大は「紛争校」でない、臨時評議会「大学法」で協議。(昭44.8.30.)
”報告の必要なし、弘大評議会紛争校でないと見解。”(昭44.8.30.)
”弘大の動きも活発、大学法反対で学生・教官。(昭44.9.3,)
”紛争校でない、弘大臨時評議会で確認。(昭44.9.5.)
”「紛争校ではない」柳川学長語る。(昭44.9.5.)
”弘大本部を封鎖、学生団交拒否に不満。(昭44.9.7.)
”全共闘が本部を占拠、弘大学長の談話に反発。(昭44.9.7.)
新聞の見出し、記事の内容は、本当にそのことにかわりあった者からみると、必ずしも”真実”を伝えているとは思えないが、世の中の人々はそれにゆりうごかされてゆくのであろう。このような動きの中で柳川先生は何を考えておられたのであろうか。
昭和44年9月3日の臨時評議会の議題は「当面する学生問題」であった。
そして、9月5日のひるに評議会、6日土曜日の本部封鎖があってから、会議・会議とその後何年も会議がつづくことになるのである。
6日午後臨時評議会、7日(日)午後1時医学部教授会、3時評議会,8日(月)午前8時半学生との話し合い、11時教官との話し合い、3時教授会、5時評議会であった。
9月18日付けの新聞記事にのった、「学長、過労で倒れる」という小さい記事は、17日午後から夜半までつづいた医学部の会議室で開かれた臨時評議会で「学長を信任するかしないか」のげたを先生が評議会にあずけ、別室に退かれたとき、体のことを心配してかけつけた松井保健管理センタ−所長に血圧を測ってもらったのが真相であった。新聞では「結論を得ぬまま散会した」とあったが。
9月19日の大鰐温泉不二やの座敷で開かれた臨時評議会。この会場のことは学報にのっていないが、この日、機動隊の導入については学長の判断にゆだねることを決定したのであった。佐藤光永医学部長、石川義信病院長と弘前への帰りのタクシの中で、何が大きな決定に参加したあとの、無言の時がすぎていったことを思い出す。
まだ大学としての戦後はおわっていないし、資料は公開されていないので、詳細にのべることをさしひかえなければならないが、評議会の席上、学長をこまらしたであろう、内容からいって、他の方々と同じことを発言しているのに、何故か、私には、ゆっくり、ほほえんで応じて下さった柳川先生の顔が忘れられない。