科学者の目

 

 槇哲夫先生が弘前大学医学部におられた頃だから、もう20年以上も前のことなのだが、ある日、十和田湖へおともをしていった時のことが今も記憶にあたらしい。

 休屋につき、高村光太郎作乙女の像のある方へ進んだ。何回もそこへ足をはこび、色々な方を案内し、乙女の像をバックに記念撮影をする場所なのだが、あの時、槇先生が、なかば私に話かけられるように、つぶやかれた言葉が忘れられないのである。

 「こうやって、二人の乙女が向かいあって、手をあわせる姿勢をとると、どうしても、うしろの足のかかとは土につかず、あがるんだがな」と。

 ところが、作品の乙女の像は、両足とも、しっかりと大地をふみしめて立っているのである。

 手をあわせて向いあうポ−ズをとりながら、どうしてもうしろの足のかかとがつかないことを自分の体でたしかめながら、乙女の像をまわりまわったときのことが忘れられない。

 さすが、みる人はよくみているものだと感心し、その物証をカメラにおさめたりしたのである。

 芸術作品そのものは、その内容が自然科学的に無理があっても、そんなことは関係のないことなのであろう。その中に没頭できることがうらやましくもある。

 しかし、自然科学の教育をうけ、日頃それに専念している身にとっては、職業がらといおうか、色々なことを考えてしまう。

 政治家が、だみ声で名調子でやっていてもクレブスを疑ったりする。

 歌手がいくら愛らしくうたっていても、歯科の先生方は、あの”みそっぱ”が気になるだろう。

 医師とか医学者のもつ宿命のようなものを感じたりするのである。

 でも”食塩と栄養”という本を書いたら、編集の方が”見えない食塩が見えてくる本”と本の帯広告に書いてくれたのをみて、うまく内容をつかんでいると感心もしたのである。

(弘前市医師会報,152,6,昭57.1.1.)

もとへもどる