この4月に京都で医学会総会が開かれたことは大抵の皆さんはご承知のことと思います。集まるもの3万余、演題7千を越え、名誉と伝統に輝く第14回日本医学会総会は4月1日午前10時より京大大ホ−ルで行われた、とは新聞、雑誌の伝えるところです。とにかく44分科会に分れて、それも各々が第1会場とか第2会場とかをもっているのですから、一つ身のいずこへゆくやとまどうばかりで、その上に機械や薬の展示会、映画会、又は都おどりなどの観光に、3万人はそれぞれ思い思いのスケジュ−ルに5日間をすごしたことと思います。4年の一度の総会でどんなことが問題になったかは、そのうちでニュ−スバリュウのあるものはその頃の新聞やラジオで盛んにとり上げていましたからもうくりかさないことにして、その会に出席し、医学会とか、医学について反省させられたことについて述べてみたいと思います。
それについて興味のあるのはいまから53年前、明治35年の4月2日に、第1回の日本医学会総会が開かれたときの様子を、ベルツの日記(岩波文庫第1部下61頁)にみることができます。今度はすべて代読でしたが、首相や文相の講演のあと、ベルツは、医学会のあり方について次のように述べています。
”この種の大会が有益であり、ことにこの日本では必要である所以は、それが医師相互の間の重要な個人的交際を仲介するからでありますが、またことに、このような方法によってのみ最新の知識が国内のいずれの地域へも急速に、しかも徹底的に普及され得るからであります”
”この種の会議で最も重要なことは、・・・種々様々な意見の活発な交換・・・意見の発表のために十分に、しかも特別な機会を設けて下さるようお願いする次第であります”
”この理由からまた、会議をあまり多くの分科会に分散しないよう、くれぐれもご注意いたしたいと存じます。それぞれの専門家にとっては、いうまでもなくその専門事項を強調し勝ちなものであります”
”だがこのような専門家にとってこそ、日頃あまりにもかたよった仕事をしているのですから、こんな機会に、全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです。−−−と申しますのは、生ある有機体におきましては個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は、ほとんど効果を予期しなかったような方面から、しばし、最大の成果を得ているからであります”と。
このことは現在の医学会のあり方、又医学のあり方についても最も強く言われてよいことでしょう。人間を、その総合的な人間を、取り扱う医学が、あまりにも分科し、本当の人間の姿を見失い、学問的興味にのみひきずられている姿、これが現代の医学の姿といえないでしょうか。
今度の京都での総会では、午後の日程の大半が総会に当てられて一応まとまった知識を得られたことは一つの進歩といえましょう。しかし医学会総会で得られた成果が、国民の健康増進に、医療の向上に直接反映してくるような日はいつくるのでしようか。これはむしろ国民自身の健康への意識の問題であるでしょう。でなければいつまでも”総会といっても、つまりはお医者さんの4年に一度のお祭り?さ”ということになってしまうからです。大分論旨が飛躍するようですが、医学とか医学会というものが、医者という一つの技術屋のやることではなくて、国民の健康という立場から、国民全体の関心事であるようにならなければいけないと思うからなのです。