この題名から受ける印象では、人が大勢部屋にいて空気が汚れるとか、温度の環境が悪くなるとかいう、近頃映画館などで問題になっているような内容をさしているのではないかととられるかもしれない。特に筆者が衛生学の専攻の者であるので、衛生学はいつもそんなことを問題にしていると、とられるかもしれない。ところがその内容たるや、そんなみみっちい−−−というとせっかく衛生学の試験を受けるために勉強された諸君に申しわけないことではあるが−−−問題ではなくて、人間社会の本当の理解のためにはこのovercrowdingとundercrowdingの関係が今後研究されなければならないということを示すものである。
これはJ.B.S.Haldaneの書いた本”What is life”の中の一章をなす題なのである。ホ−ルデンというと生理学や衛生学を学ばれた方なら一度は耳にする名前なのだが、この本はその有名なホ−ルデンの息子である。ではどんな内容のことをいっているのか一寸紹介しておこう。
彼は、都市がうまれ、人が次第にこみあってくることからとき始めている。そこで問題になるのは飲料水が、人の排泄物によってよごされ、その結果コレラや腸チフスが人間に与えてきた脅威は大したものであったことを示し、それをさける一つの方法は、水道であり、古代ロ−マは奴隷にとっては良き日ではなかったが、それでも百年前の英国の王様より良い水を飲んでいたとさえいっている。そして今や水道の恩恵を受ける時代になって、悪い水のかわりに、ビ−ルやブド−酒を飲み、”Beer is best”という標語をかかげていたのはもはや役に立たなくなってきていると言っている。これまでは所謂overcrowdingの問題であるが、これから本論に入るのである。
その本質的な理解を得るために彼は動物界にその例を求めている。それには高度に社会化された蜂のような動物ばかりではなく、集団的に住む動物について教えられることが多いといっている。overcrowdingもundercrowdingも化学的な基礎に於ける作用と考えることができる。海岸に住むConvolutaという虫は、普通等量の水で海水がうすめられると死んでしまうが、三百匹も一緒にいると死なない。これはお互いに生きあうために必要なものを出しあっているからであろう。しかし場合をかえ、塩化カリに対しては一匹でいるよりは沢山一緒にいた方が死にやすいのである。このような例だと、一方ではovercrowdingであるが、他方ではovercrowdingではないのである。又動物を飼ってみるとよく分かることなのだが、子供を生んでふえてゆくには、或る適当な密度があるということだ。食物につく虫はあまり少なくては相手をみつけることが困難だし、相手が多いほどよけいに卵を産み付けるようである。しかしそれも適度を越えるとお互いに卵を産み付けるのを妨害さえもする。雌鳩はひとりでは決して卵を生まないが、相手がいると、たとえ鏡の中に自分の姿がうつっているのをみても卵をうむそうである。これなどは精神的な影響と考えられるが、もっとはっきりした例はイナゴにみられる。Urarovによるとイナゴにはsolitaryとsocialの二つの型があるという。社交的な方は色が濃く、小さく、早く成長する。両者の習性は全く違い、社交的なものはとなりのものが一方にゆけばすぐついてゆき、数百マイルも飛ぶような群をつくりやすい。孤独型の方はこうは振る舞わない。そして一カ所で数がふえてゆくと、イナゴは孤独型から社交型へと変わるのである。若い孤独型のイナゴを試験管の中に入れられて、たとえ種類が違っても他のイナゴと4日位一緒に育てると社交型に変わるという。そして若いイナゴは試験管の中に入れられて、まわりに友達がいることが、光があってわかれば、社交的になるのだ。そして暗闇でも互いにアンテナで接触しあうと社会型になるのである。又アリの例では早く土を掘るアリとおそく土を掘るアリと一緒にすると、一方はおそくなり一方は早くなる。お互いに手助けをするわけではないが、仕事はよけいするようになるというのである。
このようなことが人間ではどうであろうか? とホ−ルデンはいっている。
大人では大したことはないであろう。しかし若い子供では影響は大きいだろう。家族構成が最近は次第に小さくなってきている。近頃では家には一人しか母親がいない。子供達は、道路に出てあそび、公園へゆき、学校へゆくようになるまで、他の子供達をみることが段々と少なくなってきている。ソ連では子供達が大工場の託児所につれてゆかれ、又戦争中英国でもそうであったが、そのような場合には又事情は違ってくるであろう。こんなことが赤ん坊にどんな影響をもってくるのであろうか。ソ連では小さい時から子供を社会的なものとして取り扱っているよういわれている。もし私が五つになるまで兄弟のない一人息子ではなかったらもっとよいやつ(much nicer chap)になっているかもしれない。私には分からない。しかしイナゴや鳩と同じように人間についての観察からひき出される多くの問題に、解答があたえられる必要のあることは分かっている。−−−これがホ−ルデンの結語である。
さてホ−ルデンが”I don't know”といったのはどう考えたらよいか分からないといっただけで、私達の生活の中にそんな問題がないといったのではないであろう。人間生態学として人間を総合的にみてゆこうという立場をとるときには、いつもこんな関係を頭の中に入れておかなくてはならないであろう。さっき出てきた子供を育てるときの問題から、隣の人といえば弘前から青森位までゆかなければならない国の人たちと、からかみ一つへだてて住みあっている国の人たちの間にある相違は一体何であろうか。地球のかたすみに起こった一寸した事柄でも、たちまちにして全世界に伝わってしまう世の中と昔とでは、私達の生活はどう変わってきたのであろうか。今や私達の生活がより社会的なものに変わってきていることは事実であろう。私達の生活、それは学生生活であり、学問の世界であろうと、その根底に、OVERCROWDINGやUNDERCROWDINGの示された問題があることは頭の中に入れておきたいものである。