日本人の死に方について

 

 学生を前に「今日はこれから日本人の死に方について話します」と始めると、必ずド−とくるものだ。

 戦前に育った者ならば、この言葉から「武士道とは死ぬこととみつけたり」といった雰囲気を感ずるのであろうが、どうも皆には、首をつるとか、心中をするとか、その言葉の中に一種のおかしみを感じとるらしいのである。

 ところが、私のいおうとするところは、人間の健康をおびやかす病気とか、死を将来の人間の幸福の為に役立たせようとするために今までとは違った面からながめて、日本人の死に方を問題にしようとするのだから、この言葉の意味を本当にわかってもらうためには、やはり時間をかけなければならないのだ。

 一体人間の死に方は四百四病、千差万別であるのが自然で、学問が進めば進むほど、勉強する学者は勉強するほど、特別な病因を見出して、診断書を書くものだ。

 老人が死ぬといつも、「癌」と死亡診断書を書くことに代々きめているといった話が衛生統計の学会で問題になる一方、大学病院などある町では、「ギラン・バレ−症候群」とか「瀰漫性軸索周囲脳炎」といった一寸頭をひねるような診断名があるものだ。それでいて診断書を書く自由は医師の人格の中に認められていて、結構世の中に通じているのだから面白い。

 ところが、死亡診断書には「この人はこれこれの理由で死亡しました」といって、墓地へ行くための証明書といった一般の用途があるばかりでなく、その診断書をもとにして、将来の人間の幸福のためになんとか利用したいと考えている人たちのあることも考えてみる必要がある。日本だけではない。世界の学者が集まって診断書に書かれた死因を将来に役立たせるために色々相談している。

 或る人が悪性の高血圧で腎臓の機能が悪くなり、尿毒症で死亡したとき、その人の直接の死因は尿毒症であるが、今のわれわれの考え方は、高血圧がなければ尿毒症で死ぬこともなかったろうといって、高血圧を原死因と考えるのである。

 死亡診断書の規則の中で、原死因については次のように定義されている。

 原死因とは

 1.直接に死亡をひきおこした一連の病的事象の起始点となった疾病又は損傷

 2.致命傷を生ぜしめた災害又は暴力の状況

 もとをただして、最初の病気や怪我がなかったら、今死ぬことはなかったと考えるのである。そこでそのもとになるものが何であるか、それを集計したのが死亡統計なのだ。

 さて、その死亡統計を、どのように将来に役立てたらよいものだろうか。

 このためには、頭をきりかえて、今迄と違った目でその事実をながめなければならない。人が一人死ねばその個人にとって、又家族にとって、又社会にとって、尊い、厳粛な出来事である。しかし、人間は何時かは死ぬのである。何時か死ぬはずの一人が今死んだのである。誰もが自分が近い将来に死ぬとは思ってはいない。しかし毎年何人かの人が死んでいるのだから、自分もいつかはその運命をたどるのである。そこで考えなければならないのは自分の死と先人の死との関係であって、それが偶然ではなくて、一定の生物学的法則にしばられていることを知らなければならない。

 人間の集団の中に、或る事件がおこったとき、そのおこったと同じ状態の中に人間が生活していると、その事件は繰り返される。昭和30年に日本の結核で死亡した人が4万7千名であったが、昭和31年にも4万4千名でまだなくなりそうもない。癌では昨年約8万名の方が亡くなったが、今年もそうであろう。死因の第1位をしめる脳卒中では年約14万名が死亡し、特に東北地方が多い。東北地方ではその上、若い時から死亡率が上昇し、30歳から59歳の働き盛りの方の死亡は東北6県で年4千名である。毎年である。昨年も、今年も、又来年も。すなわち、今元気で働いている人の中に、数万という死亡予定者こそ問題にしなければならないと思うのだが。

 人工衛星が今地球の上をまわっている。今まで自分を中心に考えてきた物の考え方をしばらくやめて、わが身を人工衛星の上において、地球の上を、そして青森県を、そこにおこっている人間の様々の動きを眺め下すことはできないであろうか。

道標・第二次.第3号,1−3.昭34.)

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