古い読者の方は覚えておられるかもしれないが、昭和43年の「生活教育」に石垣純二先生が、脳卒中予防の保健活動という文章の中で、「血圧は迷信にとりかこまれている」ことを書いていた。
肉食をすると血圧が上がるか、菜食がよいか、の論争にふれた中での、次の一文が、私には気になってならなかった。
「肉食と菜食は血圧に関係ありません。それどころか、菜食をしますと、野菜はカリウムが多い関係で、どうしても、ナトリウム、塩を欲しくなるのです。農村で塩辛いおかずを作りますのは菜食に偏っているからです。塩をとりすぎて血圧を上げる恐れは菜食にこそあるのです」と。
実際の生活指導の中で、5番目ではあったが、「食生活と血圧の関係でやはり問題になるのは塩のとりすぎです」をとり上げていることはよかったが、なぜ日本人が、東北の人が、食塩を沢山摂っているかの理論について納得いかなかったのである。
私たちが主として東北地方の住民を対象に、脳卒中や高血圧の疫学的研究を展開しはじめた昭和29年の頃は、国際的にみても、日本でも、高血圧と食塩との関係は認められておらず、昭和34年の日本医学会総会の内容を紹介した新聞記事でも、脳卒中や高血圧の多発と食塩とは無関係と大きく報道されたほどであった。
しかし、研究をはじめて7年目の昭和36年に、日本公衆衛生学会の特別講演の機会が与えられた時に、
「生活、特に食生活、住生活の改善によって、脳卒中ないし高血圧の予防の可能性のあること」
「食生活については、食塩過剰摂取は悪く、りんごの多食は高血圧発生の予防に効果があることを推測させる事実があること」
「食生活そのものが、その土地の生産性、その他の社会経済的条件に支配されていることが多いことを知らなければならない。一般には生理的要求によって食塩過剰摂取が来たされたものと信じられているが、米をミソと漬け物で食べるという食生活の型からくる問題であり、塩味の好みからみても、習慣形成によることが多いことが考えられる」
「予防の要点は、何か単一な要因を考え、それに対する治療的な対策とか、患者として把握された人たちのみに対する対策によって解決され得ることはなく、生活全体をながめ、生活の合理化をめざす、いわば健康な村づくり、健康生活への実践の過程として、その対策を考えねばならぬと思われる」とまとめ、今後プロスペクチブに追求していかなければならないと述べたのであった。
石垣先生が書かれたことは、当時の教科書に書かれ、一般に信じられていた常識であったが、その常識にこそ問題があるのだと、日本公衆衛生学雑誌に書いたところだったので、早速どのような根拠でこのように書かれたのかをうかがう為に手紙をさし上げたが、ご返事がないまま亡くなられてしまったことは残念なことであった。
その後展開された疫学的研究によれば、臨床研究、実験病理学的研究を含め、ナトリウムの過剰摂取に問題のあること、ナトリウムの摂取は人間がつくり上げた文化に関係があり、カリウムはナトリウムの過剰摂取の害を低減させると考えられること、が実証されてきたので、菜食に血圧を上げる恐れがあるとは、今はいえないと思う。
すでにご承知のことと思うが、1975年次いで81年に、オリバ−らによって報告された食塩が1日1グラム以下という「塩のない文化」に住むヤノマモ(マ)インデイアンの食生活は主として菜食でカリウムは数グラムであり、それでいて妊娠し、子供を生み、授乳をし、元気でいることがわかったことは、われわれにあらためて日常摂取する食塩の問題について反省をさせることになったと思う。
肉食のほうは主として欧米の成績によって、脂肪過剰摂取、血清脂質の増加、動脈硬化、そして肥満とからみあって、虚血性心疾患の危険因子としての見方が強いが、わが国で展開された疫学的研究によれば、日本人の高血圧のあとに続く脳血管疾患、特に脳出血の発症・死亡には、日本全体の食生活の実情からみて、適当な肉食は良しと考えられるようになったと思う。
食塩も減り、食生活もバランスがとれるようになって、循環器疾患については、ほぼよい線をいっていると考えられるのではないか。
食塩の適正摂取量として、10グラム以下という数値が厚生省から公表されたのは、昭和54年8月であるから、すでにご承知のことと思われるが、テレビ・ラジオ・新聞など記事を聞いたり見たりしていると、今日でも「食塩の適正摂取量は10グラムです」といったり、書いたりしている。なぜこの数値が決まったのか、学問的な背景はなんなのか、わかっていないのではないかと感ぜざるを得ない。
日本人の栄養所要量の改正についての解説があるからそれを読めばよいのだが、以前15グラムといっていた数値が10グラムになったくらいにしか考えていない人が大部分ではないか。
なにしろ食塩をどれだけとったらよいかということについて、日本人の1日1人当たり食塩所要量として15グラムという数値を妥当なものと考え、公表した昭和21年以来34年間も、教科書にそう書かれ、教えられてきたのだから無理もないかもしれない。
しかし1977年の米国の食糧改善目標として、食塩については、1日少なくとも5グラムのレベルまで減少しようというのだから、日本でいう10グラムに「以下」がつく意味をもっとよく理解しなくてはならない。厚生省のいう10グラム以下という目標は日本人にとってきわめて具体的な、また実行可能な目標ではないかと思う。
日本人の食塩摂取状況が国民栄養調査によって明らかにされるようになって数年、ようやく12.5グラム(昭和56年)まで低下してきたことは喜ばしいことと思われる。
同時に脳卒中の死亡率も、訂正死亡率でみても、40年を境に全国的に低下してきており、また出生を同じくするコホ−トでみても、若い人ほで加齢による死亡率の上昇の傾向が低くなっていることが認められている。
また血圧の状況も、現在40歳代の中年の男性を除けば、平均値でみても、一定の限界線を引いてみる高血圧出現率でみても低下してきており、血圧の分布の中で高度の高血圧状態の方が以前と比べて少なくなっていることが認められている。この変化が、いわゆる治療を受けている人だけにかぎらないから、何か良い方向へ変化が進んでいることが考えられる。それが食生活の中の食塩の減少と平行関係にあることは、もしこの変化が逆であったら、高血圧とか脳卒中と食塩との関係があるという学説は疑われることになるのだから、食塩過剰摂取の疾病論的な意義を考える上からは意味のあることと思う。
しかし、これらの証拠は、人口集団全体にかかわる、われわれのいう集団評価についてのもので、個人の問題についてはどうであろうか。
高血圧の定義の中にWHOの定義というのがあって、これもよく引用されている。これは集団的に統計的な検討の時に用いられるべきものであると書いてあるのだから、個人の血圧測定値に用いられるかの如く解説され、使用されているのはどうしたことか。
おまけにWHOの定義というのは、その専門委員会が開かれ、報告書がでるたびに若干の変更があることも知らなければならない。
具体的な一例をあげれば、 1958年以来広く通用してきた最高血圧140ミリ未満、最低血圧90ミリ未満を正常という切断点も、1978年の報告書では140以下90以下となっているので、高血圧者の判定をするときの出現率にわずかではあるが差がでてくる。
血圧は、生きている限りあるもので、一定の方法で測定しても、 1拍ごとの異なるもので、1回の測定値で正常、異常をふりわけることは全く不可能なのにもかかわらず、現在まで広くそれによって分類され、指導が行われているのはどんなものであろうか。
食塩についても全く同じことがいえると思う。
今回発表された食品分析表には、各食品中の食塩相当量が示された。
食品群別に食品100グラム当たりの食塩相当量と、可食部100グラム当たりの食塩相当量が示されており、実際の食塩摂取量は、これらの食品の摂取量を乗じたものになる。
日本人には日本人なりの伝統ある食文化があって、それに左右されるが、一般には塩蔵物が多いから、これをとるとらないかによって、毎日毎日の食事ごとに摂取食塩量が変わることが考えられる。
また現在急速に食生活が変化してきているから、どこから食塩が入るか一人ひとりについて考えていかなければならない。
栄養調査を1日いかに厳重にやったとしても、それはその日だけのことである。また蓄尿による食塩排泄量をみることが正しく食塩摂取量を推測させるといっても、それはその前の数日間の食塩摂取量を反映しているだけのことであって、1日の測定値はその1日のものでしかない。
われわれの教室で検討中の”濾紙法”というのを用いると、その気になれば1週間でも1か月でも1年でも、その人なりの食塩排泄量が比較的に容易に測定できることになった。これからはかなり長期にわたる成績に基づいて、食塩と血圧との関係も検討されることになると思う。
血圧でも現在のように血圧測定が普及した時代には、できるだけ多数回の血圧測定値を個人的に整理検討すれば、一目でその人なりの血圧の状況がわかると思う。そのような長期にわたる血圧測定値、食塩排泄量をもとに考えると、動物実験ではある程度明らかになってきたいわゆる遺伝体質的な問題が、人間にもあてはまると考えざるを得ないことになってきた。
その個人的差異を決めつける要因は、未解決ではあるが、食塩に敏感で血圧が上がる人と、抵抗があって食塩をいくら食べても血圧の上がらない人がいるということであろう。 保健指導が集団指導にとどまることなく、個人個人にきめの細かく行うことの必要性がいわれてきたと思うが、食塩についても同じような考えに基づいて指導が行われなければならない。
しかし、食塩についていえば、国際的にみて日本人としての問題もあり、日本の東北地方に多いという地域差、農業に多いという業態差も指摘されている。
われわれが全国の保健所の方々の協力を得て、3歳児のような年少の時代からすでに食塩摂取量に地域差があることが、全国の4535の資料について検討した結果明らかになった。クレアチニン1グラム当たりの食塩排泄量には地域的に有意差が認められ、東北地方は有意に高かった。
風土にねざした食生活が、子供にも反映していることのあらわれと思われるが、また食生活改善の難しさも教えてくれるものと思う。