”芽生え”へ

 

 昨日青森で開かれた衛生部職員研究集会に行って来ました。助言者として呼ばれたのですが、皆さんの仲間の何人かの方におめにかかりました。その時私が発言したことを書き留めておきたいと思います。

 一つは”研究する心”ということです。きめられたこと、いいつけられたことだけを1日中やっていてそれでよいかということです。毎日の仕事の中に、何か疑問、問題を意識する、それが研究のはじまりであり、それを考えてゆく、これが研究する心ではないかということを申しました。

 私たちの世の中はそれぞれの土地、人々によって違い、たえず変わってゆくものでしょう。その中で健康問題について考えていく、そこに勉強があり、進歩があり、それが研究発表にみのっていく。そのレベルが高いものであれば、それは社会の信用をはくし、社会の為になり、又あなた自身にためになるのではないでしょうか。そんな意味を含めて、たえず研究する心が大切だといいました。

 でも人間は弱いものです。学会、学会とそれにしりをたたかれて勉強をやっている自分をふりかえってみるとき、やはり何か研究発表会に出すとか、目標がないと実際は研究も進まないようです。やってみれば、そして発表してすんでみれば、、それがちゃんとした本にでも印刷になって、永久に世の中にのこるようになれば、ああよかった、とそんな気持ちに皆なるものだと思います。

 一つ研究発表会を利用しよう、そんな積極的な気持ちが必要なのではないでしょうか。具体的には、是非来年の研究発表会には諸姉19名全部が何か1つの発表をされることと、それを今から心しておくこと、19題で会をうずめて下さることをお願いしたいものです。

 もう一つの問題は、意見交換のテ−マになった「保健所は地域の保健活動にどう対処すべきか」に付いて述べたことです。

 保健所が今この世の中からなくなったら一体どういうことになるのか、保健婦さんが地域からいなくなったらと考えてもよいのですが、一応考えてみる必要があるのではないでしょうかと申しました。市町村に充分にその力ができたとき、保健所の仕事を市町村におろしてしまったら、保健所に一体何が残るでしょうか。

 衛生教育が必要だということはわかっていても、小学校もろくに出ていないこの地方の老人を相手にしているならいざしらず、小さいときから保健を教えられている今の若い人たちに充分たちむかっていくだけ、保健婦に実力があるでしょうか。集団検診で成功した結核対策のようなやり方が、今後の健康問題に通じるでしょうか。十把一からげにやってうまくいった時代と違って一人一人その人の行動と健康問題をむすびつけて考えていかなければならない時代になったとき、保健所は一体どうしていったらよいのでしょうか。

 そんな問題を述べたあと、私は基本的に重要なことは、”疫学的な考え方”であると発言しました。

 疫学、それはその名の示すように民衆をおおうものの学問であり、単に病気や診療所をおとずれるケ−スのみにとどまっていない、地域全体、個人個人全部を考えた立場であります。その地域全体にどんな問題があり、検診もれになった人たちや、病院にこない人たちの中にどんな問題があるかを考える人、機能、それはどうしても必要と思います。それを考える人が保健所長であり、それを実行するのが保健婦さんではないか、とそんな意味のことを申しました。

 皆さんの発表を聞いていて助言者として統計の図の書き方、例えば推移をみるには片対数グラフを用いた方がよいとか、パ−セントの誤差は検討したかとか、大分うるさいことを申しました。そんなことを言われるなら、もう発表はコリゴリと思ってもらっては困ります。こんな基本的な技術的なことを無視して研究は独善で独りよがりになり、社会的には低くみられてしまいます。それを乗り越えて行かなければならないと思います。それが認められてこそ私たちの仕事がのび、月給も上がるのではないのでしょうか。

 (派遣保健婦文集:芽生え.第2号,1−3,昭43.7.)

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