再び保医研の諸君へ

 

 私の「衛生の旅」には、保医研の諸君に向けて書いた小文の記録がある。

  昭和36年 「保健医学研究会へ」

  昭和46年 「保医研によせて」

  昭和50年 「保医研の真髄」

 そして今回昭和59年に再び、保医研の雑誌の「創刊号」に何か書くようにとの注文である。

 弘前大学医学部の学生諸君の保健・医療についての文化活動を歴史的にみると、昭和28年に学友会が発足したとき、「社会医学研究部」ができて、主としてセツルメント活動を展開した。衛生の高橋英次教授が部室を提供したが、私が31年に教授になったあともそれを引き継いだ。

 33年に新たに「社会医学研究会」が発足し、大勢の諸君が8つの部門を受け持って活動し、勉強し、全国ゼミにも参加し発表したりした。

 34年には「保健医学研究会」という名称になって再発足し、衛生学教室の図書室を部室にして勉強し、夏には青森県内市町村の保健活動に”カキカツ”として参加した。青森の高等看護学院の保健婦学生とペア−になって家庭訪問するなどしたこともあった。

 その後弘前大学の看護学校の学生と一緒になり、医療短大ができて、昭和50年に「弘大保健医学研究会」となって現在にいたっている。

 このほかいくつか関連の研究会が学内にあるが、そのようにつづいているのは「保医研」だ。

 この30年間に世の中は”変わった、変わった、何もかも変わった”

 保健と医療をめぐる諸情勢も変貌した。その大きな流れについての私の考えは前に述べたが、保医研の先輩達は若い心でそのつど現在を感じとって活動していた。

 年々歳々人同じからず・新しい諸君はまた何を感じとるのであろうか。現在の問題は何であろうか。

 そこにまた再び「創刊号」を作ろうとする意義があるものだと思う。(59.5.30.)

(The Hoiken(SOKANGO)昭59)

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