おしん、澪つくし、いのちと、時代をおってドラマがつづいたが、今回のいのちの舞台の中心が津軽の弘前である。
八甲田の山々を遠くにながめ、岩木山のふもとに、ひっそりとある城下町、それが弘前だ。
その弘前には、塾員にとってはなつかしい義塾と名のついた高等学校、東奥義塾がある。明治5年に慶應義塾に学んで帰った元藩士の菊池九郎らによって創立されたのだから、本当になつかしい。
弘前藩代々の医家の流れをくむ弘前小野病院の名誉院長の小野定男氏(7医)は以前弘前市医師会長をやり、現在弘前三田会の会長である。昭和10年に加藤元一先生と一緒にガマをもってレニングラ−ドで開かれた第15回万国生理学会へ行ったことはいつも出る話題である。
以前は地方の名家の子弟が塾に入ったようで、旧村長の藤田文正氏(15法)、弘前で一番古くから農器具農薬を取り扱った町田商会の町田徳輔氏(12法)、長らく東奥義塾の教員をやった渋川恒次郎氏(10経)は弘前三田会の上席に座らされる常連である。
弘前大学医学部のしらぎく会(献体の会)の会報をみていたら、幼稚舎出身・8経卒の川越薫氏が弘前に居をもたれたという。わが国の技芸国民健康保険の草分けの方とのこと。このような先輩を近くにもって幸いであるが、かくいう私も東京生まれ、幼稚舎からの生粋の慶應ボ−イである。弘前大学医学部へきて30年、弘前が第2の故郷になった。東北地方に多く、この地方では「あだる」といわれる脳卒中、そして高血圧の成因を追って、食塩過剰摂取の疾病論的意義を指摘し、りんごが高血圧予防に効果があることを初めて報告することができた。
青森県歯科医師会長であった板垣正太郎氏(21医)は戦後の特別クラスに入って塾員となった。藤崎町で歯科開業の佐藤甚弥氏(29法)、最近病院から医院へ看板がえした白戸英一氏(36医)もいる。三木康臣氏(31政)は駅前に地建の事務所をかまえ、慶普から入った佐々木正治氏(27高)は中華料理の揚子江をやり、宗徳寺住職の黒滝信行氏(39経)、夫婦そろって塾員の法律事務所をもつ三上雅通氏(48法)真知子女史(49法)、老舗の本屋今泉本店の今泉昌一氏(54法)など、そして市役所にいていつも三田会の世話をし、応援歌のタクトを振る篠崎珠樹氏(48法)など、みな故郷の弘前へ帰った人たちである。だからここでは津軽弁が標準語である。
尾上町の寿酒造の葛西良二氏(30法)、近くは大鰐温温泉不二やホテル支配人の藤田孔弥氏(34経)、黒石市にはりんご商の横山博氏(37経)がおり、弘前三田会に顔を出す。
書き落とした方々が沢山いるようである。銀行・自動車・保険会社など、転勤組が次々と顔を出す。時には検事猪狩俊郎氏(47法)までも。
みちのくのはるかな町弘前も、近く東北高速の秋田より小坂越えが完成して、東北・仙台から直通になり、盛岡からはバスで2時間となり、新幹線乗り継ぎが一番便利だ。その上三沢と違って航空母艦に降りるようだと言われる青森空港が明年にはジェット化し、弘前は近くなったと思われるようになるだろう。それでいて小京都といわれ、また八甲田・十和田湖など自然にめぐまれた津軽の弘前は、今は日本に少なくなった風物・人情をくる人に伝えてくれると思う。
かって石坂洋次郎先生が「物は乏しいが、空は青く、雪は白く、林檎は赤く、女達は美しい国、それが津軽だ、・・・」と書き残したが、今もその姿は変わっていない。(昭18医)