あっという間の30年

 

 編集委員の中村幸夫君が久しぶりに教授室にやってきた。

 ”退官”の特集を組むので、何か書いて下さいとのことであった。

 昭和29年に医学部の助教授として弘前に着任し、31年に教授になって衛生学を担当し、この3月31日に停年で退官する身だから、思い出を書けばきりがない。

 十年一昔というが、三昔である。が、あっという間の30年であった。

 これまで健康で2月14日に最終講義をやれるまでにやってこられたことは有り難いことである。

 研究の方は弘前大学医学部衛生学教室業績集を第12巻まで続けて出すことができ、国会図書館からISSN(国際標準逐次刊行物番号)(0910-0377)をもらい、コンピュ−タ−に入った。その主なテ−マは東北地方住民の脳卒中高血圧の予防に関する研究だが、その内容は”血圧論から食塩文化論への展開”である。その中でうかんできた”りんごと健康との関係”についてはまだやらなければならないことがある。

 これら研究の流れをしるには、図書館にある「衛生の旅」「衛生の旅Part2」と写真集「人々と生活と」でわかっていただけるものと思う。

 30年の暮らしのあと、人生のPart3への旅立ちである。弘前大学を去るにあたって、嬉しかったことを一つ書き留めておきたい。

 それは専門3年生の最後の試験の始まる前に、ちょっと、ということで渡された感謝状と花束であった。私だけでひとりじめするにはもったいない話なので、この文面をかりて、記録に残しておきたいと考えた。

 「佐々木先生、30年間どうもご苦労様でした。先生にはまだ専門1年生の3学期の講義がおありですが、先生のご恩を長く受けてきた我々専門3年生には最後の機会ですので、ここに先生のご恩に感謝したいと思います。

 先生の講義、又それ以外での先生とのふれあいの中で、我々は多く考えさせられ、刺激され、啓発させられました。

 どこまでも青いギリシャの空と海、強そうな日差しにもかかわらず涼しいそうな木陰、そこにのんびりと暮らす人々。そして圧巻は禁止されながらも先生の思わずぬすみどりした衛生の女神ハイジエイヤ。その輝くような健康的な美しさを見、先生の講義の中でそれを見たとき、そこに治療医学を越えた健康の美しさを見、衛生の重要さ、治療医学以前の健やかな人間の輝きを思ったのは私だけではないでしょう。

 又今ではわずかな痕跡しかない疫学発祥の地、ジョン・スノ−の井戸の前に立ち、感激の余り、通りがかりのおばあさんに「私はこれを見るために、はるばる日本からやってきた」と語ったときの、先生の興奮、そのおばあさんが、けげんな顔をして、コツコツと去っていったときの、映画のような、絵画のようなその光景を思うとき、一つの分野に打ち込む人間のすばらしさと少しの哀愁を感じ、かっこいいなと思ったのは私だけではないでしょう。はっきりいってあこがれました。

 先生のお話には学問として身につくところも多かったのですが、それよりも無形のものとして、静かに、でも深く影響を受けるものが多かった気がします。いかにも幼稚舎から慶應という貴公子然とした先生なのですが、先生がこちらにいらしゃった頃は、”弘前大学には全学で顕微鏡がひとつしかない”ということも、東京方面でまことしやかにささやかれていた頃だそうですが、今こうしてけっこう評価され、自信をもって弘前大学であると言えるようになったのは、先生のみとはいいませんが、クイズ面白ゼミナ−ルに出るほどの先生の業績のおかげと思います。

 先生のことですから、まだまだこれからいろいろやっていかれることでしょう。われわれも先生の教えを、自分たちなりに消化して、20年後の青森県の医療、さらに日本の世界の医療に貢献していくことを誓います。

 ほんとうにありがとうございました。衛生の女神ハイジエイヤをぬすみとるするちょっとエッチな、だけどハイジエイヤの最高にして永遠のナイト佐々木直亮先生へ。

         昭和60年12月10日  専門3年生一同」

 レコ−ド大賞じゃないけど涙がでた。

(学園だより No.72,4,昭61.3.)

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