弘前大学医学部を停年になり現役から退くので、弘前市医師会員からも身を引こうと届け出をだしたのだが、巻頭言を書かされるはめになってしまった。新編集委員の三浦行一先生からの依頼である。”先生も弘前へ来られて30年だそうですから色々あるでしょう、何か書いて下さい”と。
いま放映中の「いのち」に弘前医科大学が登場してきたが、私が弘前にきたのが昭和29年だから正にその時代で、医科大学と医学部の両方の辞令をもらったものだ。
弘前市医師会を横目でにらんでいたが、鳴海康仲先生とか石郷岡正男先生とかが、今でいう地域保健・学校保健の活動に熱心で、青森県内で一人の衛生学の教授としては、感心もし、お手伝いさせて戴いた。
大先輩の武見太郎先生や小野定男先生が医師会長をやっておられたこともあり、、医師会というものの社会的機能について考えるところがあって、弘前市医師会員になったが、当時大学の偉い先生がたは医師会を見向きもしなかったことは理解できなかった。この点については前に大学と医師会、医師会と大学とかいう題で書いたことがあった。医学部構内の駐車場の整備がアメリカと比較して十数年おくれているように、卒後教育の整備が十数年おくれているといわなければならない、と書いたのだが、自分のことしかやれず、年がたってしまった。弘前大学医学部でも漸くこのごろ医師会の検討がされることになったとか。
時は移りこの30年間に健康問題は急速に変貌した。
日頃診療に携わっておられる先生がたは、ご自分の経験からそのことを感じておられると思うが、別の見方、衛生あるいは公衆衛生(厚生省ではこの言葉が行政上なくなった)、疫学的(この言葉のほうが国際的に通じるが)見方によれば、日本も東北も弘前も、人々の健康問題はどんどん変貌していることが明らかである。
おしん、いのちとそのドラマのテ−マは結核、胃癌、ガッチャキであった。若い働き盛りに多かった”あだり”も少なくなり、脳卒中の病型も変化した。
これから人々の健康問題はどのように変貌していくのであろうか。
健康問題のつかみかたについては毎日ライフ5月号の巻頭言に書いた。
死亡率からの情報からだけでなく、その前の病的状態について、またその前の健康からずれた状態、その状態を作り上げるもろもろの環境、また自分でもその状態を作り上げている生活に目をむけ、健康問題を把握しなければならない、と書いた。
これは疫学的な見方からの主張である。
いま又新しく衛生の教授になったら何を考え、研究を始めるか、何をしなければならないかと思うが。
退官してあらためて一般の人々に接すると、近年素晴らしく進んだ医学的知識が、殆ど一般には理解されず、人々の行動に反映されていない思いがする。他の生活の内容はどんどん進み変化しているのに。
こんなときに医師は何をし、医師会は何をするのか。
こんな気持から、東北女子大学の教授としていますこし働いてはという話があったとき、「健康科学」という科目を提唱したのである。健康科学は医学の中にあるのではなく、もっと広くとらえたい。保健教育はその実践である。医師といい医師会といっても、もっと社会とふれなくてはいけないと思う。