新春随想:東北のこと

 

 東京生まれの人間が東北地方の弘前に住むようになって、あっという間に33年たってしまった。

 小さい時佐々木家の紋は丸に縦三本と教えられていたが、伊達家の家紋に一つにこの紋がある。亡くなった父が佐々木家のル−ツをしらべてくれたが、その資料を見ると、佐々木は伊達の家来で、私がこの東北に住むようになったのも、なにかの縁があったのかもしれない。青葉城跡の資料室へいったら、あまり一般的でないこの家紋のついた手鏡などあって、それを確かめることができた。もっとも母がたは丹波篠山の医家の出であるので、私は東西のあいのこであるが。

 弘前大学を停年退官し、いますこしやるようにとのお勧めに従って東北女子大学の教授となった。健康科学を科目名として売り込んで、弘前のお嬢さん方と勉強を続けているが、東北女子大学というと、仙台ですか、と聞かれることが多い。

 いつの時代から東北と名のつく大学は、仙台のイメ−ジをもつようになったのかと思いながら、本をみていたら、東北大学ができたときの経緯にふれた文章にぶつかった。

 それは弘前高校百年史の本であったが、「明治初期、学制頒布」によって「青森県は第八大学区(宮城をふくむ)に属し、その本部を青森におくとされていたが、翌六年四月の改正で第七大学区に変更され、加えて本部も仙台に移された。このため帝国大学も青森に設置されるはずであったのが、残念にも仙台に持ち去られることになり、これが現在の東北大学となっているのである」と。

 いかにも弘前人の残念さが読みとれる文章であった。それから仙台は東北大学と共に歩み始めた。

 青森市に青森医専ができたとき、東北大学の近藤正二先生が衛生学の講義にこられ、青森に衛生学が始まった。それは昭和20年6月19日のことであった。そして弟子の高橋英次先生が弘前医大の衛生学の初代の教授になり、私が二代目に、そして今は三代目となった。

 近藤正二先生が東北一円をみてまわり、秋田の村にいかれたとき、20歳代から脳溢血で亡くなることから、壮年期(20-59歳)脳卒中死亡率を計算され、量的でない質的な問題点を指摘された。このとき東北のもつ脳卒中の問題を的確に指摘されたと思う。

 われわれが研究を始めた時は、脳卒中の発作があり死亡するのは20歳代ではなく、30歳からになっており、中年期(30-59歳)脳卒中死亡率という指標で疫学的研究を展開した。近藤先生の時代には、疫学という言葉は伝染病に用いられ、論文の題名は脳溢血の成因についての衛生学的研究であった。

 昭和30年この東北6県の中年者は2,735,000名いたが、その中年者のうち4,253名は脳卒中で死亡していた。全国の率なら1,422名、死亡率の低い四国の率でなら2,218名も東北では余計に死亡していると計算さたので、その実態を昭和32年に日本公衆衛生雑誌上に指摘した。があまりに大きい問題であったためか、その公衆衛生的意義は十分理解されず時は過ぎていった。

 脳卒中、そして高血圧は東北地方の人々の生活と深くかかわりのある問題であると思われ、その中で指摘された食塩過剰摂取の害、またりんごと高血圧予防といった問題も、国際的に関心を呼ぶことになった。この30年間に生活改善が進むなかに、東北の脳卒中の問題にも変化が現れてきた。

 脳卒中のことを、青森ではずばり”あだり”という。東京生まれの私はつい無意識に”あたり”といい、atari,,attataと論文に書いたことがあった。これからはadariと訂正しなければならない。東北に特徴のある病気は、東北弁で言わなければならない。

 Tohokuという名称は医学雑誌の名前とともに国際的に確固たる地位をきずいたが、tohokuをnorth eastというか、north-eastern parts of Japanというか、まよったことがある。

 最近は中国の東北地方という言葉が用いられることが多くなったが、満州といっていた時代ならとにかく、これからは混乱するだろう。

 みやぎ公衆衛生情報が創刊11年目を迎えられるそうだが、単に宮城県だけにこだわることなく、広く全世界を相手にして発展されることを望むものである。

(公衆衛生情報みやぎ,121,2,昭62.1.5.)

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