朝のひととき

 

 うっすらと積もった早朝の雪道を歩いていたら、後ろから追い抜くように歩いてきた学生が、‘おはようございます’と声をかけてきた。

 はるかに雪の岩木山をながめ、土淵川のほとりに弘前市内から久渡寺までつくった遊歩道で早朝ジョギングならぬウオ−キングをしている時だった。

 可愛い小柄の男子学生の顔をみて、一瞬医学部の学生かなと思った。私のことを知っている。

‘私のことを知っているの?’答えは‘いいえ’であった。

 

 いつも歩いているとき、面とむかって来る人にも声をかけらることもなく、こちらから声をかけるにもタイミングがあいにくいのだが。なぜ日本人は目をさけるのか。そんなことを思ったことがあったので、ついこんな言葉がでてしまったのであろう。

‘アメリカあたりだと、お互いに挨拶をかわすのに、どうも有難う’

 突如アメリカがでてきて相手はめんくらったかもしれない。

 

‘弘(前)高?’あるいている方向からそう考えたのだが。

‘義塾’です。そういえばネクタイをしている。

 急になつかしくなって‘僕は慶應義塾出身だよ’といってしまった。

‘へ−’

 このへ−という返事がなにを意味するのか。

‘そう、今度郊外にりっぱな校舎ができたね’

‘でもちょっと不便で’

‘いやそのうちよくなるよ。昔僕らの予科が日吉にできたように。

 この辺もすっかりかわってしまって。僕がこの近くに家をたてた時は 何にもなかったんだ。がんばってね’と短いやりとりであったが、肩をたたいてわかれた。

 すがすがしい朝であった.

 (緑が丘ではなく、旭が丘の岡崎君といっていた)

 

 一段と今朝がすがすがしく感じたのにはそれなりの訳がある。

 それは某大学医学部教授から、今度国際学会を開催しますから、ご寄付を頂きたい、という手紙を受け取ったばかりであったからだ。

 どんどんお金をだせない自分にはらをたてていたのかもしれない。

 

 だがいまはやりの言葉を引用すれば、‘秘書・秘書’といい、‘妻・妻’といい、‘部下・部下’といっていたのが、今度は‘助手・助手’といわれなければよいがなと感じた時だったからである。

 まして中央の公職もやっていると聞いている当人名での寄付依頼であったからだ。

 

 独立自尊はどこへいってしまったのか。

 いろいろの学会を主催したとき、学会とはなんだ、その運営は、その予算は、と頭をひねった時のことを思いだした。

 同じクラスだった友人達が助けてくれたこともあり、その好意を有難く頂戴しはしたが。

 前に書いた‘草間良男先生のこと’また昨日よんだ三田評論の福沢先生のことばが頭をかすめた。

 

‘学者は社会の奴雁たれ’と書いてあった.

‘ 奴雁’とはどういう意味か。先生がいつどこでいったのか。その意味がよくわからない言葉であった。

 女子大へいって調らべたところでは ‘雁奴(がんど)’というのはあった。またその意味も書いてあった。

(雁が夜、沙渚中に宿するには、千百の鳥が群を成し、大なる者は中に居り、小なる者は外を囲んで雁奴となり動静を察し、狐・人などの来り捕ふるに備へるといふ)と。

 文学部教授の書いた「奴雁」が正しいのかどうか。明治時代はよく文字を逆に書くことが多い。福沢先生は本当はなんて書いておられたのか。こんど調べてみよう。

 福沢先生のような‘学者を飼殺して’くれる人がいればな、と思ったりした。

 これを今日のワ−プロにいれておこうと思ったところで、玄関に帰ってきた。(63・12・16)

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