今回の学会は第2回国際心臓学会( 2nd International Conference on Preventive Cardiology)で、会長はスタムラー(Jeremiah Stamler)であった。
1965年11月シカゴの衛生部に彼を訪問したとき、奥さんのローズにも会った。またこの日が私にタバコ喫煙と健康とのことを意識させ、禁煙にふみきりさせたことになった日になった。世界で初めて血圧測定の客観化に関するミイーティングがシカゴで開かれたときミネソタにいた私をよんでくれた。スタムラーは奥さん共々日本の東北地方の高血圧と食塩との関係にはことのほか興味を示めし、1970年にロンドンで開かれた第6回の世界心臓学会議(World Congress of Cardiology) の中の高血圧の成因に関するシンポシウム(round table session といっていたが)の招待講演者として多分私を選んでくれた人でもあると思われたその人が会長であったし、そろそろ引退の頃かと思われたので参加することのしたのである。
循環器に関する学会を歴史的にみると、1946年Intenational Societyof Cardiology (ISF) が組織されている。1950年パリにおいて第1回の世界心臓学会議が開かれて以来、4年に一度の会がもたれて、78年第8回は日本でも開かれた。第5回のインドの時に Council on epidemiology and prevention が誕生し、したがって第6回のロンドンの会のときには2つにテーマを受け持つことになり、その一つが虚血性心疾患の疫学ともう一つが上記の高血圧の成因になった。 この時の Council の Chairman が キース先生(Ancel Keys)であり、事務局長がスタムラーであったという関係であった。 彼が Prenventive Cardiologyという本をだしたのが1968年であり、その本の中で、高血圧と食塩との関係について、日本での疫学的研究を引用し、この関係は結論がでている訳でなく矛盾する研究もあるものの、高血圧性疾患の予防への接近について考慮の価値あるものと述べた。
4年前モスクワではじめて予防心臓学会が開かれて、ついで第2回の会になったというわけである。予防にたどりつくのには時間がかかる。
またスタムラー夫妻らは世界の疫学者を育てるために、20年にわたって世界の国々で 10-DAY セミナーを展開した。これに参加した若い疫学者の数は700名以上にもなり、今度の学会の1200名の中にも多く参加していた。展示の中にもこのセミナーの回顧展もあって、日本の今は教授や部長になっている人たちの写ったスライドが展示されていた。
国際的に食塩と高血圧との関係を再検討しようとして始まった Intersalt study もこの仲間達がやった仕事で、Dr. Intersalt! といって握手したいまはロンドンにいるエリオット(Paul Elliot)もきていて、 Brit. Med. J.に発表のあった成績のつづきを発表していた。
キース先生夫妻もお元気に参加されており、もうずいぶん前に退官したのだが、まだ忙しくやっている、NOBORU がはやく死んでしまってとか、奥さんが元気でいるとか、と Seven countries study に参加していた木村登先生のことを懐かしがって話していた。
ミネソタ大学に私がたどり着いたとき、部屋がみつかる前にころげこんで数日寝起きを共にしたストラッサー(Thomas Strasser)はその後 WHO の medical officer になったが、停年後、CARDIAC studyを手伝い、今度は World Hypertension League (WHL)を世話していて、その展示のためにやってきていた。元気そうだねといったら、食塩をすくなくして、と私にはなをもたせてくれた。24年前彼の部屋で私の血圧論を紹介し、世界の人々の血圧の分布が問題なのだといった時、彼はその見方からすればアメリカは悪い国といった一言がまだ記憶にある。
その時代誰がキース先生のあとラボ(Laboratory of Physiological Hygiene)の主任になるかと噂しあっていたのだが、そのときの講師のブラックバーン(Henry Blackburn)が教授になって、今はアメリカをリードし、今度の学会の事務局長であった。相変わらずサキソホンがうまくて、今度の会の歓迎の音楽はニュウーオルリンズのジャズであり、メンバーにまじってふいていた。
ロンドンの名所の随筆に紹介したローズ(Geoffrey Rose)は今は大物になって、今度の学会に基調講演ともいえる、Preventive Cardiology:What Lies Ahead? という題で予防医学の話をしていた。
WHO にいたフェイファー(Zdenek Fejfar)や今はスイスにいるというエプスタイン(Frederick Epstein)もきていた。ロンドンでの私の発表に塩と循環器と癌との関係についてコメントしてくれたベルギイのジョッセセン(Jozef Joossens)もきていた。もうかなりの年になったであろうに。前のほうにすわり相変わらずなにかと発言していた。先日日本にも奥さんと一緒にきたとき、奥さんにご主人がロンドンで私の発表にコメントしてくれたのですよといったところ、主人のことだから、なにを文句をつけたのやら、と笑って応えてくれた。この点どこの国でも同じようである。今度のワシントンの会は近いので奥さんはきていないとのことであった。
同じベルギーのケストルウト(Hugo Kesteloot)は今度ヨーロッパで健康と栄養の会をやる、重要な会だからこないかとプログラムを渡してくれた。私の仕事にはことのほか興味を示し、内容を理解してくれている。学会の2か目であったか、朝早く会場にいったら、彼が一足遅くきていった言葉は [ Dr SASAKI allways number one ] であった。 韓国との共同研究をしばらくやっていたこともあって、その間に弘前にもやってきた彼、日本のことが詳しく、漆ぬりや浮世絵など、彼のコレクションは話半分に聞いても大したもののようだ。疫学のミイーティングのあと日本からきた先生がたと連れだって夕食を共にしたのだが、彼の日本に関する知識に皆は煙にまかれた。彼がしゃべって受け答えをするとき、いつも「イヤァ イヤァ イヤァ」というので、イヤァイヤァの先生の愛称を差し上げた。
ヒルトンの玄関のところで尾前照雄先生ご夫妻に夕食はいかがですかとさそわれた。銀座という店にすきやきを予約しこれから行くところです。一人増えても大丈夫でしょう。アメリカのすきやきもよいだろう、折角の機会だからとおともすることした。
タクシ−で乗り付けた店で小柄で着物をきた女の子に案内された。顔はまったくの日本人だが、それでいて全く日本の言葉がしゃべれない。やはりここはワシントンなのである。
すきやきのやり方がまず話題になった。関西風、関東風、そしてアメリカはワシントン風と。
ユニオンステーションが立派になって、そこのお寿司がおいしかったのですけど、と奥さんがおっしゃった。新婚時代におられたことがあるワシントンとのこと。
「衛生の旅を戴いて−−−−−、いつ書かかれるのですか。」
その日の会話をまとめれば、有に一冊の本になる。
ビールによいは回ってよくしゃべったようだ。昔のこと、今のこと、関連のある人々のこと、予防医学のこと、ハワイでのこと、などなど。 ワシントンの夜はふけた。 (1・7・14)