ニュ−ヨ−クにて

 

 久しぶりにニュ−ヨ−クを見たいと思ってワシントンでの学会のあと2日ばかりよることにした。

 ニュ−ヨ−クも物価が高くなってホテル代も高いですよ、でも安全のためにもと云われて、予約してもらったホテルはウォルド−フ・アストリアであった。ヒルトン系で、N.Y.を訪れる各国元首・政治家が泊まる最高級ホテル、建築様式、インテリアはともに1930年代の優雅さを残していると案内書にあった。

 

 いつもニュ−ヨ−クというと思い出すことがある。

 これも25年前にもなるか、アメリカ留学中にはじめてニュ−ヨ−クを訪れ10日ばかり滞在、ド−ル(L.K.Dahl) 先生にも会い、エンパイヤにものぼり、見物してまわったことがあった。

 ホテルに着き、すぐ隣のバ−でビ−ルをのんでいたら、日本人が入ってきた。それが東野修治先生であった。学会できたといい、トランクがまだ着かぬといっていた。

 その時泊まったホテルはアメリカでの常宿YMCAであった。彼が泊まっているホテルも同じYMCAであった。

 YMCAのホテルは安いことも安いし、アメリカ各都市でバスでタ−ミナルに着いてざーと見渡すと、どこでも近くにそのホテルはあって便利したものだった。

 先日ある会で東野先生にあったときニュ−ヨ−クにいってきましたといったら、先生は5ドルの部屋で私は3ドルでしたと、いっていた。お互いに貧乏だったな。

 

 それが今度はアストリアで、ル−ムチャ−ジは 190ドルであった。

 それもタワ−の方には専用のエレベタ−があり、ボ−イが乗っていた。それもかなりの年とった白人で、今日は天気がいいねといったら、不機嫌そうな声で、今日は天気はよくないと返事してきた。まだ日本人とみられているのか、こちらが若造に見られているのか、まだ立居振舞いがいたについていないのか、体の大きな人へもつ感覚からそう思ったのか。

 ホテルのそばにパンナム(Pan Am.)のビルがみえた。 昔パンナム全盛ではなやかなりしころ、その建物の一階でチェックインし、屋上からヘリコプタ−でケネデイ空港まで飛び、ロンドンまで大西洋を渡ったことが思い出いだされた。

 ところが今はビルはそのままあることにはあったが、なにかその付近の街並はすぐ隣のグランドセントラル駅と共にゴ−ストになりかけていた。

 都市は20年もたてばどんどん変わっていく。

 では昔乗ったサ−クルラインはどうであろうか。観光案内に相変わらずあったので乗ってみた。これは全くといいほど変わっていなかった。

 西42丁目の83桟橋から乗ることも、舟もコ−スも同じであった。

 毎日のように衛星テレビでみている、新しいニュ−ヨ−クのビルの風景を水上からこの目で確かめることができた。

 変わったことといえば、あの当時二三人しか乗っていなかった、日本人がやたらに増え、それも若い女の子が連れだって乗っていることであった。

 中にニュ−ヨ−クのジャズを楽しむ会とかいうグル−プ一向が乗っていた。独身のOLが多かったようだが、その団長とかいう方と話をしていたら、戦後DJのはしりで活躍し、昨年だったか亡くなられた牧田清志先生の後輩で、その道での有名人であることがわかった。私もリズムが好きで、ベニイグットマンの話とか、アポロ劇場で黒人の熱狂的なジャズを聞いた話をしているうちに3時間のクル−ジングはおわった。

 桟橋に近く軍艦が2隻つながれていた。誰だったかが平和の中に軍備を忘れるなと全国からくるアメリカ人に無言で語たりかけているのだといっていた。

 

 金曜の5番街は人にあふれていた。土曜日の美術館は人にあふれていた。近代美術館とメトロポリタン美術館しか見るひまはなかったが。

 街を歩いていたら、 APPLE BANK という建物があった。塩とかりんごというと、すぐ飛びつく自分ではあるが、Apple という文字が目にはいいた。りんご銀行である。日本でも先日トマト銀行というのが話題になったが、アメリカのりんご銀行は先取りである。

 ホテルの中ににあった INAGIKU の SUSHI の TEKKAMAKI は日本と比べて比較的安く格段に美味しかった。2週間の旅であったが日本食が恋しくなったのかもしれない。

 

 家へ帰ってきたとき、美空ひばりさんが亡くなったのを知っていますかと聞かれたのだが、ニュ−ヨ−クをたった時読んだ衛星版の日本の新聞に日本と同じ記事が載っていたので、空白の日々はなかった。

 ニュ−ヨ−クのTVで日本特集をやっていたので毎日日本の風景を見ていたし、TVに日本語の番組がとびだし、夏の帰省には 950ドルの切符をどうぞ、電話番号、係は TANAKA までといった調子であった。(1・7・18)

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