福沢諭吉先生の学問のすゝめの始めに、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」とありますが、”いえり”と書いているところをみると、この言葉は先生のオリジナルではありませんね、といった方がいた。弘前での三田会のあつまりであった。
パリで革命200年記念祭やアルシュ・サミットがあったので、革命の歴史や人権宣言やそれに関係する話が次々とTV・新聞に報道されるなかに西洋事情を書いた福沢先生のことも出てきたので、あの言葉は西洋につくりあげられた思想によったとみるのが順当であろう。親や自分が中津藩で経験したことから、門閥制度は親のかたきでござるといった先生ではあるが。
私にとっては物心ついた時には慶応義塾幼稚舎という小学校に入っていたので、福沢先生といえば、三田の大ホールの中の正面にかかげられていた、着流しの先生の立っている姿が焼き付いている。
そして壇上の壁にそったところに椅子がまるく置かれてあって、その中の中央の一つが大きな椅子であった。
なにか式があると、その場所に座る人がきまっていて、またその人がなんとなくたよりなくみえ、あれは先生のお孫さんだとか、ささやきあっていた記憶がある。
私立学校にはそれなりの創立の学風というか精神があって、塾で先生とよばれるのは福沢諭吉先生だけであった。どの教授も君ずけでよばれ、掲示もそうなっていたが、肉親の系統はあとをひくものかなと、このごろ思ったりする。
国なり会社なり学校を背負っていけるだけにそこで生まれた人が育ってこそ、一人前に生き延びていくのではないだろうか。それには時間がかかる。
アメリカが独立して200年であり、フランス革命が200年である。
日本は何年たったと見るべきなのか。
おとなりの中国の最近の事件が先進国に批判されている。
もうすこし長い時間の流れとして見るべきではないか。
中近東の戦火を交えているところのTVをみていたら、ある人が”なんで200年位前にこの土地にはいってきて”といっている言葉が耳にはいってきた。その人にとっては200年はほんのちょっと前のことと思われるのだろう。
フランス革命の裁判の再現の劇をやっていた。
その判決が現代人にアンケートされていたが、ルイ16世を死刑にせよという数は10数パーセントで、半数以上は死罪を認めていない判決がでていた。時がたつと人々の考え方もかわる。判決までの裁判のやりとりは史実によって以前と同じように構成されたのだろうけれど。
栄養学の講義でいつもでてくるラボアジエもたまたま税金の取り立て官という仕事をやっていたためか、革命の時断頭台のつゆときえたが、あの頭脳を切り落とすのはほんの一瞬であったが、あの頭脳をつくるのには何世紀もかかるのではないかといわれるのだ。栄養素の体内燃焼の理論が始めていわれたのも、ほんの200年前のことなのだ。そして学問の進歩、そして考え方の展開にも時間がかかるのだ。 (1・7・19)