塩と民族

 

 貴稿掲載ということで送られてきた日本医事新報の緑陰随筆(Civilization is saltization)を読み返していたら、ミネソタで世界中の塩と血圧の文献について検討した結果についてセミナ−で報告したことや、ロンドンでの世界心臓学会でTVのインタ−ビュウをうけたこととともに、数年前青森市のデパ−トの古本市で見つけた「塩と民族」という本のあることを思いだした。

 「塩」という文字が目に入り、ついで「民族」という言葉があれば買わないわけにはいかない。

 著者は時雨音羽(しぐれおとば)であり、日本講演協会発行、昭和18年初版、昭和19年二版発行、売価二圓八拾五銭で、¥1000と値段がついていた。

 時雨音羽とはどこかで聞いた名前だと思ったが、大蔵大臣の石渡荘太郎氏の「序」をみて納得できた。

 「時雨音羽君は何年かの前、大手町の大蔵省旧庁舎の国税課の一室に居られたが、コツコツ何か研究してゐた。此の一青年が、畑違ひの詩人になった事は承知してゐたが、君の「出船の港」や「鉾ををさめて」が、あの省舎の中で造られたものだとは知らなかった。もう一つこの書が、その時代から苦心し、心がけられた著述である事を知って更に感を深くする。」と。

 塩が日本では専売であり、大蔵省にその係があったろうから大臣が序を書くこともわかる。

 「人類の日常生活に、一日も欠く事の出来ない塩も、幾千年の遠い昔から、人々と苦楽を共にしながら、一向にその歴史や活動の状態は識られて居らない」と書き始められたこの本には、人類と塩、塩の起原と製塩、外国の塩、製塩の地方的考察、塩の性質、種類、作用、工業と塩、物の味、塩の味についての考察、塩の文学的考察、戦争と塩と云うように、広範にわたって塩について記載されていた。塩といってもこの本ではすべて「鹽」という文字が使われていた。

 その内容は後日昭和45年に日本専売公社の広報課から出された「塩の話あれこれ」という本の元にになったことをうかがわせるものであった。大蔵から公社へ所属は違ってもわが国での塩は専売されていたから、その係になった者はその主題の塩について纏めておくことを考えたのではないだろうか。

 

 いつも此の手の本をみると、健康との関わりはどのように記載されているかが気になる。

 「人体と塩」の項目のはじまりの文句はおきまりの「人間は鹽がなくては生きられぬやうに出来てゐる」で始まっていた。

 「手鹽にかけて育て」、「どうも鹽梅が悪い」のは「酸性食物」と「アルカリ性食物」の取り合わせにより、「烈しい労働者は多量の鹽を食わねば躰が保てぬ」し、「北の地方では特に鹽辛いものを愛好し」「北の方面に特に早死にの統計はないのである」と述べられていた」

 高血圧のことは記載はないが、動脈硬化にはふれていた。また古書「本草綱目」の「西北方の人は、食鹹きに耐ずして而して寿多く、病少く顔色よし、東南方の人食甚だ鹹きを欲して而して寿少く病多し」とキメつけてゐる、これもどうかと思う----と、そのときの常識から疑問をなげかけているが、いまあらためて読むと面白い。

 昭和18年といえば私が医学部を卒業し海軍軍医になった年であり、この様な本が出たことも知らなかったが、学問の歴史的展開からみると、当時はこのようであったのであろう。

 しかし本人も「-----街の詩人は斯う考えるのである」と書いているように、いたるところの文章に「詩人」の面影があふれていてる。

 中山晋平民謡曲V「鉾ををさめて」装禎竹久夢二氏、昭和4年山野楽器店とある楽譜が手元にあるが、この歌を歌うとき、また「塩と民族」の本のことを思わずにはおられない。

 

 家内が旅行先の本屋で「たぶん貴方には興味があるでしょう」と買ってきてくれた本が同じ「塩と民族」であった。

 2版発行5000部とあったから、その内の二冊がわが家にあることになった。(1・8・7)

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