はや年の暮れ

 

 山下さんが亡くなってはや1週間たった。彼は私と同じ大正十年生まれの68歳であった。

 サハロフ博士が心臓病で急死したとのニュ−スが流れた。

 先日広島へ来日したときの写真そして「サハロフ博士の遺言・大江健三郎との対話」が放映された。原子力発電は必要だといっていた。

 数万人にもおよぶ人々の葬儀の列が衛星放送に流れた。カラヤンのときとはだいぶ違う。そして博士も68歳であった。

 開高健という作家が58歳の若さで亡くなったという報道があった。喫煙・ウイスキ−・そしてグルメときては、今の医学常識からいって自ら選択した人生といえよう。

 「人生いろいろ」とは今年覚えてもよいと思った演歌の題ではあるが、まさに人生いろいろである。

 

 小野淳信先生から「生きると云うこと」の本、そして品川信良院長から「医の心・医の悩み」の本が相次いで送られてきた。

 小野先生はこの18日で77歳の喜寿を迎えられるという。以前書いたものを多少書き改め、何時でも出版出来るようにしておいたが、−−−−何度かためらいながら、ついには私の「喜の寿」を迎えるこの年の暮れ迄に上梓したいという内心の誘惑にかられ、「北の街」の斉藤せつ子さんに電話を入れてしまった、とあとがきに書いていた。

 「遺言のように、いま書いています」というのは品川先生の言葉であった。

 生きているという証(あかし)は一体なんであろうか。

 衛生の旅の Part 5 を目標に、「はしがき」を書き、「一日一考」をうちこんで早や一年たってしまった。

 はやく出さないとの思いが頭をかすめた。一冊分の原稿もたまった。

 

 いま大阪に住んでいる次男の修が帰ってきたものの、山下さんが亡くなったという電話がきて、家に30分もおられず、家内と一諸に青森から空路上京していった。その短い間の会話である。

 「いっちゃ悪いけど、衛生の旅 Part 4 がまた送られてきて、ぱらぱらとめくり、読んではいませんよ。また同じことを、もう結構だ」

 「身内だからいえるのです」「僕なんかも、一人で生活していると、もう何もいってくれる人がいないので、気がついたらいって下さい」

 「何故こんな本をだす気になるのです。あなたはろしつきょうです。自分のことをさらけだし、ひとが傷つき、めいわくしているのも気がつかないで」

 「そのことははしがきに書きました」「でもあの本がほしいのですけど。どこに売っていますか。わけて戴けませんかという人もいるのですよ」

 「おせいじですよ」

 「参考文献に衛生の旅を書く学生もいるのです。衛生の主張は、考え方、そして私なりの考え方は書いて残して置かなくてはと思うのです」

 「衛生の旅のはじめの書いたように、私はそんな気持から旅の随筆は書く気はなかった。こんな話を原島進先生の前でしたとき、“でも君、君も他人に知らせる必要があるよ”と。随想は私の心のうごきである。この心のうごきを活字にのこし得たことを、いつか感謝する時かくるだろう、と書いたことがありました」

 「ぼくの墓場は祖父が東京の青山墓地に造ったところの一角をもらうことに兄との口約束になっているけど、私に会いたくなったら、国会図書館へくればよい。コンピュ−タ−にsasaki naosukeなりササキナオスケでもいれると出てきますよ。先日できたばかりの国会図書館の“ロム”(CD−ROM)でためしてみたら、食塩と栄養と人々と生活とを含めて6冊出てきました。弘前大学医学部衛生学教室業績集は別に入っていますけど」

 「それでは1冊でよいでしょう。わざわざ人に押し付けることはありません」

 「りんご健康科学研究所とかいって、なにもしていませんね」

 「いそがしくて。あれは種をもっているだけです」「でも柳田国男先生の研究所も解散したそうですよ。どんな形でやるかが問題なのです」「それでも私なりに仕事はしているつもりです」

 「ワシントンへもいって発表してきたし、論文を書いて日本衛生学会に先日送りました。本当ならお赤飯を炊いてもよいくらいなんだけど」

 「あら ちょっともしらなかったわ。きょう一本つけましょうか」

 「ひとくぎりだし、りんごと健康の本でも書こうかな。だいぶ前からの懸案だから」

 「衛生の旅をだすより、その方がよいわ、わかりやすく書いてね」

 「学校も休みになったし、子ども達も帰ってこないし、すこし書きはじめようかな」

 (1・12・21)

目次へもどる