ちょうど鵬桜会報の「衛生学教室のアルバムから」の原稿を書いているとき、「山本先生がお亡くなりになりました」と電話を戴いた。
いくつかある先生の写真をながめながら原稿を新しく書き直した。
先生が話し、書き残したことの第一のテ−マを上げるとすれば、それは昭和20年7月28日にあった青森空襲の際、先生が体験された出来事であろう。
医学部30年史その他に詳しく述べられているが、当時医専に数台しかなかった顕微鏡を持ち出していた能登山繁君が焼夷弾にやられて片腕をなくし、その腕の手術を先生がされたこと。失った方の腕を捜しもとめて見つけた話。火葬をした同君を思って霊前に捧げた歌三首を書かれたこと、など。
これらの出来事は医学部の創立を自らの手でなしとげたという自信になり、先生の愛校心は停年になるまで続いた。
佐藤光永先生や松永藤雄先生が学部長として運営されていた教授会で、同級生のよしみか、自分に忠実なためか、「独得」の意見をよく述べられた。光永先生は「直情が他人には奇行と見られる」と評した。
「自分は他人を評価することは出来ない」といわれ、全員に同じ評価点を与えたことがあった。しかしそれもこれも総て創立以来の先生の愛校心なるが故に許されていたと思う。
自転車で東京へいかれ、真っ黒になって帰られた。そしてバイク。自動車部の後援。
学生が卒業するとすぐお互い同士を「先生・先生」と呼びあっていることを嫌われ、ご自分でも「教授」を嫌われ、「教師として一応の責任をはたした」と停年の時言われた。
「自分の声は大きいから」と差し出すマイクはよく断わられた。後ろの方の学生には何も聞こえないのにと思った。近代化とくにアメリカ化には抵抗があったようだ。
退官記念行事が行われたときの先生の挨拶で「あまり出なかった教授会も今になっってみるとなつかしい。今日は水曜日、今ごろは教授会で何をしているかと思う」と言われた。
そんな率直な自分を出されることが、人に愛されることになったのであろう。
先生と同級生であった衛生の高橋英次先生のところに助教授として赴任したとき紹介して頂いて以来のおつきあいであった。
以来朝陽小であった旧校舎の2階の廊下を歩く先生のスリッパの日毎に違う音を聞きながら、私は先生の血圧のことを考えていた。
先生がこれまで元気でおられたのは、先生の主治医であった奥様の力があったと思うのだが、先生の女性観を聞きたいものだと思ったりする。
近親者に「ダンケシェ−ン」と最後に言われたということだが、これも先生らしい言葉であったと思う。