福沢先生というのは福沢諭吉のことであるが、私が慶応義塾出身だから、幼稚舎という小学校に入学いらい福沢諭吉は先生である。
その福沢先生が「贈医」(医に贈る)と題する七言絶句を書いていることを紹介しておきたい。
慶応義塾には維持会というのがあって、年間何がしかの維持会費をだすと「三田評論」を送ってくる。その中に富田正夫博士の考証・福沢諭吉(871号、昭61.6)が載っていた。
無 限 輸 贏 天 又 人
医 師 休 道 自 然 臣
離 婁 明 視 麻 姑 手
手 段 達 辺 唯 是 真
無限(むげん)の輸贏(しゅうえい)天また人
医師 道(い)うを休(や)めよ自然(しぜん)の臣(しん)なりと
離婁(りろう)の明視(めいし)と麻姑(まこ)の手と
手段(しゅだん)の達(たつ)するの辺(へん)唯(た)だ是(こ) れ真(しん)なり
医学というものは(天また人)自然と人間との限りない(輸贏まけかち)知恵くらべの記録のようなものである。医師よ、自分たちは自然の家来に過ぎないなどと言うてくれるな。離婁のようなすばらしい眼力と麻姑のような行きとどいた手をもって、あらゆる手段を尽くしてこそ初めてそこに医業の真諦が生まれるのである−−−という意味であろうと解説されていた。
漢和辞典を見なければ解らないような漢字がならび、その意味が解らず、教養のなさを思うのであるが、ここにでてくる言葉にはそれぞれ色々な意味があることが解った。
「自然臣」というのは、杉田玄白の「医事不如自然」以来わが国の西洋医学者に広く信奉せられていた観念であるが、もとをただせばヒポクラテスの人の体には自然治癒力(フィ−シス)があって、医師はその力をたすけるのが務めであるとする考え方に由来することは解る。自然の家来になってくれるなというのは面白い。福沢先生は「自然之臣也」などと納まっていないで、自然を人智でもって征服する過程が文明の進歩なのだと考えていたのである。
「離婁」というのは、古代中国にいたと伝えられる視力の確かな人物のことで、眼科の先生はこの人のことをしらなければならないだろう。
「麻姑」は古代中国の仙女。爪が鳥のように長いので、ある男が、あの爪で背中の痒いところを掻いてもらったら、さぞ気持ちがいいだろうと思ったら、側にいた神仙の一人にたちまちその心中を看破され、麻姑は神人である、汝ごとき者の背中を掻くようなお方ではないと叱られたという故事があり、「孫の手」は「麻姑の手」の転訛であるという。
富田博士の考証は、この詩の作年が不明なので、その年月を考えたのであるが、明治25年10月4日付けの時事新報にのった社説の主旨と同様であることを述べ、また帰国後の北里柴三郎への研究助成を論じたものであったが、私にとっては、福沢先生の医師に対する考え方が窺われて興味があった。
明治25年というと福沢先生59歳の時である。
大阪の緒方塾に在学していたのが24歳、咸臨丸にのってアメリカへはじめていったのが27歳、新銭座に慶応義塾という名の塾をつくったのが35歳、40歳ちょっと前に学問のすすめを出し、そして北里柴三郎を援けて伝染病研究所の設立に尽力したのが59歳の時であった。
先生の「人生の楽事」は「学者飼殺しの説」と考えられるが、「学者が学を好むのは、酒のみが酒におけるようなもので」と述べているとろは、幼少の頃から酒ずきの先生自身の緒方塾でのふまいが頭にあって書いているようだ。そんな気持ちが北里柴三郎を援助させることになったのであろう。ちょうどそんな時期に「贈医」を書いていることは先生が医師に何を期待したかが読み取れる。
しかしその先生の気持も、もとをただせば12,3歳の小さい頃から種々の迷信や神仏などについて疑いはじめたこと、蘭学を通じて西洋の事情にふれたことなどが、還暦のころの先生の気持ちにそのまま残っているように思われる。
いま脳死とか移植とか、医の倫理とかが話題になる世の中で、先生だったらどんな論説を展開されるかと思うのであるが、私にはたぶん医師に期待するものはかわりはないと思えるのである。
慶応義塾大学医学部の北里図書館の二階会議室にこの「贈医」と題する七言絶句一幅が掲げられている。