前に「活年(カツネン)はいかが」という文を弘前市医師会報(182号,昭61)に書いたたことがあった。
ちょうど厚生省が中高年齢層を表現するのにふさわしい新名称として「実年」を決めた時であった。私の落選作としての「活年」を、ちょうど弘前大学を停年になった年に、みずからに活(カツ)を入れるために書いたのだが。
古来中国では人生を区分する言葉があって、「小, 少、丁、壮、老、耄, 耋」があるという。
暦年で小は7歳まで、少は15歳まで、ちょうど20歳ぐらいになると、一人前の丁年になったといわれた。「成人の日」には「国民の祝日」として「成人式」をやる。昔の壮丁検査はそれなりの年齢層として意味があった。
ところが厚生省では40歳から60歳までの人たちの健康問題について「成人病」なる名称を与え、今度は50歳から60歳代にかけての中高年齢層を「実年」といったのだ。
老の次に耄(ぼう・もう)とか耋(てつ)があるとは知らなかった。老に毛がついたり、老に至るがついたりするのは面白い。
老とは50歳位で、耄はもうろくのもうで60歳、耋は70歳の老人で税金を免除されたそうだ。
ところで杉田玄白が「耄耋独語」(おいぼれのひとりごと)という随筆を書いていることを、大鳥蘭三郎先生が医学書誌論考(思文閣)に述べていた。
北里記念医学図書館に所蔵されている富士川文庫本のなかに杉田玄白が著した未刊の本がある中の一つだという。
書いたのは文化13年で玄白84歳の時である。耄とか耋とかいう言葉が使われているのは漢文の素養が一般にあったからである。
「自分の身体の状況の昔から今までのことの大体のことを述べ、玄白がこの篇を書いたのは、世の人々がみだりに長寿を得ようとして心を労することは無益で」「年をとるにつれて身体全体が次第に弱って行くもので、老いの身のつらさは目出度いといって祝ってくれるものでないのだ」と述べている。
玄白自身「解体新書」を書いた精神そのままに、自分の大小便の排泄口「本文では、上の七窮の,ついで下の二窮と。窮(キョウ)とはアナのこと」のありさまを書き、老いのつらき事数限りなしと述べ、手・足・腰の不自由になった様子を訴え、精神上の悩み、主としてもの忘れの甚だしいこと、老の身の寂しさを語り、このような老いてはつらきものなるに人々がこれを望み願うのは誤っているとして、このものを書いたのだと記して文は終わっているという。
亡くなる1年前の随筆として「耄耋独語」は玄白の心身の状況を自ら述べたものとして貴重なものと思われるが、いま長寿・長寿とさわいでいる世の中に、もっと現実をみすえよといっているように読みとれる。
西洋のユ−モアの名句を集めた本に、「人には3つの年代があると聞く・・まず青春、次に壮年、そして(ほんとうにお元気そうですね)と言われる年代」とあった。
不思議に髪の毛があまり白くならず、みかけ上若くみられがちだが、来年は中国流にいえば「耋」である。