「来年の秋田での東北地方会は50回を迎えるそうですが、今までに何回参加したかを考えていたところです」
日本産業衛生学会東北地方会の第49回集談会が弘前で菅原和夫教授が学会長になって開かれ、その懇親会が岩木のあすなろ荘で開かれたとき乾杯の音頭をとった。
高橋英次先生が来ておられたら、当然先生にお願いするところなのだろうけれど、私におはちがまわりご指名があった。
記録を調べてみたら、第1回は昭和33年7月3日東北大学医学部で開かれ、年2回のうちの1回は仙台で、他の1回は産業医学の現場の先生がたが世話人になってつづいている。
青森県内でやったのは昭和42年7月22日の八戸の日東化学小中野工場での第18回の集談会が初めてで、工場医の戸張貢先生が世話人であった。
高橋英次先生のあと私が弘前大の衛生学教室を引き継いだものの、月月火水木金金といそがしく、昭和34年に公衆衛生学教室ができてようやく産業医学関係は中村正教授にお願いすることができ、私はもっぱら地域保健、研究は脳卒中・高血圧の疫学へとのめりこんでいってしまった。 昭和47年(第28回)は浅虫温泉で公衆衛生学の臼谷三郎教授が世話をし、長崎大へ移られた中村正教授の特別講演があり、昭和53年(第37回)は私が世話人になり弘前大で開催したが、臼谷教授に青函トンネルの工事現場を案内して戴いた。昭和59年(第43回)も公衆衛生学教室の世話で三沢の古牧温泉で行った。
そんなことですっかり産業医学から遠ざかってしまったが、東北各地の温泉なので結構楽しんだ思い出はあり、それでも数えてみたら、かれこれ15題は発表している。
第1回の記録は労働科学(34, 996-999, 1958)に掲載され、以下現在までつづいているのは大したもので、この基礎を造られた高橋英次先生に感謝しなければならない。
題にノスタルジアと書いたのは、私にとって学会へのデビュ−は産業医学であったからだ。
戦後昭和21年海軍から帰って慶応義塾大学医学部の衛生・公衆衛生教室の助手になった私は、当時教室を主宰されていた原島進先生のもとでCO中毒の研究をやることになった。
戦後できた労働基準法は極めて科学的な基礎をもっている法律と考えられるが、それに関連のある研究を大勢の研究者で教室をあげてやっており、CO中毒もそのうちの一つであった。
東京で中毒学会の集談会が行われていた。
昭和24年1月22日大塚の監察医務院での第6回の会で、「酸化炭素中毒の基礎的研究(第1報)血球素に対する酸素と酸化炭素の平衡恒数について」の発表を助手になって初めてやった。そしてこの研究が私の学位論文「血球素に対する酸素と一酸化炭素の親和力についての研究」(労働科学,28, 46-53, 98-104, 1952)になった。
また久保田重孝先生や今野正士先生の世話で福島県の小名浜にあった日本水素の硫安工場における一酸化炭素中毒の実態調査を行うことができて、その成果を労研の石津澄子さんと一緒に昭和24年5月26日から3日間労研で開催された日本産業医学会の第3日目の28日に発表した。
いまその記録(産業医学第四集)をみると、すでになき産業医学の先達の方々の名前がみられる。理事長の南俊治先生の挨拶、会長の石川知福教授の開会の辞、特別講演は珪肺のレントゲン診断をされた岡治道先生などであった。久保田重孝、白井伊三郎、平出順吉郎、佐藤特郎、額田粲、西川慎八、佐野辰雄、高松誠、そしてCO検知管の北川徹三先生らの報告。そしていまもなお元気な三浦豊彦、山本幹夫、秋山房雄、斉藤一、中村隆、大島正光、東田敏夫、乗木秀夫、及川富士雄、野村茂、その他の先生方の発表もあった。
私の発表に質問されたのは石川知福先生であり、「慢性CO中毒があるか、ないか」が質問であった。