『津軽に学ぶ −りんごと食塩と健康−』                          

 ご紹介戴きました佐々木直亮(ささきなおすけ)です。

 本日は東北連合三田会の記念講演の機会が与えられましたが、「津軽に学ぶ」という題でお話をしたいと思います。

 この「つがる」というのはこの地方を示す言葉として日本書記に出てまいりますが、色々の字で書かれています。ここでは一般的に広く用いられている「津軽」としました。この発音が難しいので、東京生まれの私にはこの微妙な発音はできませんので、ここで生まれ育った方から正確な発音をあとでお聞きになって戴きたいと思います。

 副題に「りんごと食塩と健康」とつけましたのは、最近「りんごと健康」「食塩と健康」という本を書きましたので、そのエッセンスをお話ししたらということであります。土手街に津軽地方の文化をせおった今泉本店があります。そこでベストセラ−になったことがあります。世話役の(法54今泉昌一)が廊下でこれらの本を準備してくれましたので興味のおありの方は1500円ちょっとの本ですので買って頂ければ幸いです。

 「一日に一個のりんごは医者を遠ざける」という言葉がありますが、日本のドクタ・ササキがその証明をしたと外国の新聞に出たことがありますし、このアメリカのりんご協会の「an apple a day」のパンフにはわれわれの研究が紹介されています。感心することはちゃんと引用文献を示していることです。弘前市のパンフにりんごと健康の記事が出ておりますが、私の本から引用しているとしか思えませんが引用とは書いてありません。今日の私の話で詳しいことをお知りになりたい方のために講演資料を示しました。大体この順番にお話したいと思います。

 また「食塩と健康」の方ですが、食塩と人々とのかかわりは極めて古く、塩(ソルト)に語源があると考えられる「サルビシヤス」という「健康によい」という言葉もありますが、現在は健康に害になることもあることをまとめたものです。日本では10グラム以下を目標にするように言われております。医16卒の阿部達夫先生が厚生省の委員で私の意見を取り上げて戴いたと聞いております。国際的には食塩の摂取量はもう少し少なく、アメリカでは5グラム以下を目標としております。これにもわれわれの研究が一つの根拠になっていることが示されています。それらの根拠、また反論もありますがそれらを含めて書いた本であります。

 10年位前に「NHKの面白クイズゼミナ−ル」に「りんごと健康」についてレクチャ−をしたことがありましたが、あのときは2分30秒でまとめましたが、今日は少し長い時間ですがそのエッセンスをお話ししたいと思います。

 また本日は特に「慶応義塾」との関連を含めて私が津軽で学んだことをお話ししたいと思います。

 専門的な論文は「弘前大学医学部衛生学教室業績集」として出しておりますが、もう一つそれらの背景にある私の考え方をまとめたものとして「衛生の旅」があります。

 この本を作りましたときにこの表紙に何も書きませんでした。これには一つ意図があったのであります。

 すなわちこの本をとりだしてどちら側から開けられるかと。東洋的なものか西欧的なものかの相違を示そうと思ったのであります。

 私の「衛生の旅」は「コス島への旅」から始まるのですが、これはあとでお話すとして、まずこちら側、東西の東を代表するものとして、この「ちゆうぎ」をご紹介しておきたいと思います。「不浄」をぬぐうもので、「浄籌」「触籌」という言葉がありますが、「籌木」「ちゆうぎ」が仏教に由来している言葉だということです。これが「現場写真」です。青森の郷土館にもなく、また日本トイレ協会の会長をやっておられる慶応の西岡秀雄名誉教授のコレクションにもないのでないかと思いますが、ご紹介しておきます。

  さて「コス島への旅」ですが、ここは西洋医学の父と云われる「ヒポクラテス」の生まれた島であり、2000年も前に医術が行われていた神殿の跡があることで知られている島です。昭和40年から41年(1965年から66年)にかけてアメリカ・ヨ−ロッパへ在外研究に参りましたときに是非よってみたいと思った島でした。

 小泉信三塾長が日本で一番古い私学ということでコロンビヤ大学創立記念の卒業式に呼ばれたとき、医学部の卒業生は「ヒポクラテスの誓い」をしているということを医学会総会の講演で話されたことがあります。

 私が出かけるちょっと前に、山形の篠田病院の篠田秀男先生が慶応医学にヒポクラテスゆかりの木のことを書いておられました。また篠田先生由来のヒポクラテスの木が全国にありますが弘前大学病院玄関前にも植えられております。

 (篠田秀男:医聖ヒポクラテスゆかりの歴史的老樹プラタナスについて. 慶応医学, 41, 380-382, 1964.)

 ヒポクラテスの時代から続く思想として考えられる「医は病気の自然の経過をたすけるという思想」があり、杉田玄白は「医事不如自然」といっております。自然を(フィシス)といい(医師のことをフィジシヤン)といいます。福沢先生は「医に贈る書」のなかで(北里図書館の会議室に掲げられていますが)、「医学というものは自然と人間との限りない知恵くらべのようである 医師よ、自分達は自然の家来に過ぎないなどと言うてくれるな 離婁(りろう)のようなすばらしい眼力と麻姑(まこ)のような行き届いた手をもって あらゆる手段を尽くしてこそ医業の真諦がうまれるのである」と七言絶句の中で述べておられます。丁度北里柴三郎を援けて伝染病研究所の設立に尽力されたときに書かれたもんでないか、と富田正文(まさぶみ)博士が考証されています。

  (富田正文:学問研究への助成−考証・福沢諭吉(68). 三田評論, 871, 32-38, 1986.)

 もう一つ衛生学の教授として、衛生のことをヒギ−ネあるいはハイジ−ンといいますが、(衛生は緒方洪庵の適塾で福沢先生と一緒に学んだ長与専斉が荘子の中から採ったといわれています)、コス島にある「衛生の女神」といわれている「ハイジエイヤ」の像を見たかったのであります。ルネ・デュボスによれば「理性に従って生活するかぎり健康にすごせるのだ」という信仰としての衛生の女神の像であります。このような考え方をもつものとして、日本衛生学会を主催し研究を行ってきたものとしてご理解いただきたと思います。これが世界ではじめてその像をスナップした写真です。保健文化賞の副賞として衛生の女神をイメ−ジした芸術作品をいただきましが、本物はこれであります。保健文化賞を戴いたとき第一生命の社長は西尾信一さん厚生大臣は斉藤十朗さんで慶応出身者がそろってしまいましたが、推薦・審査されたのは京大・東大出身の方々でした。

 弘前へ参りまして弘前に「東奥義塾」という名前の学校があるのがわかりました。先日慶応義塾卒業50年ということでこの3月の卒業式に招待状を頂ましたが、その中に「義塾」という言葉がありました。「義塾」というのは特別の響きをもっています。福沢先生がどのような意義をふくめて「義塾」といったのか、「社中」一同協力してという精神と共に考えなくてはならないと思います。

 「東奥義塾」に関連して「菊地九郎」という先輩の居られたことを知りました。

 明治2年弘前藩から選ばれて「慶応義塾」で勉強して帰り、東奥義塾を創立し、東奥日報を創刊し、初代の弘前市長になりました。弘前公園の杉の大橋のたもとの頌徳の碑がたっておりますが、鹿児島の西郷南州翁の教えを受けたことは書いてありますが、残念なことに福沢先生のことはのっておりません。碑が立てられた昭和9年という時代のしからしめたことかと思います。

 また慶応義塾から吉川泰次郎という方をよび、また横浜に留学してキリスト教に入信した本多庸一らと東奥義塾をつくるのですが、また外人教師を次々とよびました。外人教師館の建物が残っています。その中にジョン・イングがいました。りんごを箱ずめでアメリカから送らせたものと思われます。このアップルは見るものでなく食べるものだ学生にいったそうです。その種が「印度りんご」になったといわれます。津軽の人々はアップルは西洋りんごで(苹果)、従来のわりんご(林檎)ではないと主張したそうです。明治26年りんごと名称が統一されました。(雪の下)というここならでのりんごもありました。いまは(国光)といいます。われわれが昭和30年代のはじめにりんごを秋田県の農村へ貨車ではこんで食べてもらって血圧や尿の変化から「りんごを食べて血圧の低下を証明した研究」をやったことがありましたが、そのときの品種は国光でした。明治初期の廃藩置県のあとの侍たちの努力が今日を生んだと思われます。しかし病害虫との戦いがありました。初めて動力噴霧器を輸入したのが町田商会、また林檎業者それぞれに塾員が居られます。(法12町田徳輔、経37横山博ら)また東奥義塾に(経10渋川恒次郎)おられました。

 (小館衷三編:郷土史事典 青森県. 昌平社, 1978.(176-菊地九郎のこと)

 また弘前に「小早慶戦」という小学校の野球対抗戦があったことを知りました。その記事の中に「慶応の伊達、早稲田の宮武」とありました。 しかしその記事の中の誤りにすぐ気が付きました。

 慶応は「本郷寿監督・宮武三郎・山下実、また水原茂さん」でなくてはなりません。三田の綱町で生まれ、幼稚舎で育った者としてはです。再販されたときは訂正されていました。

 (笹森貞二,他:なつかしの弘前−庶民の歴史. 東奥日報, 1980.(276-小早慶戦のこと)

 (幼稚舎と綱町. 仔馬 200号記念, 165-167, 1982.)

 青森県の縄文早期の考古学の研究は慶応の江坂輝弥(てるや)教授清水潤三さんらによって先鞭が付けられたといわれております。この津軽には歴史的なことまた医学史上興味ある話題は沢山ありますが、それらは専門家にお譲りするとして、私が津軽で学んだことを中心にお話したいと思います。

 

 私が弘前大学医学部に参りましたのは昭和29年で33歳の時でした。弘前大学医学部は青森医専から数えて来年は50年、弘前市に移転してに弘前医科大学として存続することになった背景には、戦後の医学教育改革にたずさわられた慶応の医学部の草間良男先生、また当時の弘前市長だった塾出身の岩淵勉、弘前三田会の前会長の小野定男先生がおられます。(小野先生は生理の加藤元一先生についてがまと一緒にシベリヤを旅行されて万国生理学会にいかれた方です。)教授になったのが昭和31年ですが、医学部教授と医科大学教授の辞令をもらいましたが、それは「いのち」の時代でした。

 「いのち」のドラマのなかで登場する診療所がありますが、そのモデルは近くの狼森にある鳴海康仲先生がやって居られた診療所といわれておりますが、あのドラマなかで「これからは農村医学だ」「結核も多いし、高血圧もあるし」と熱っぽく主人公達に語らせている場面がありました。うっかり聞きのがされたと思いますが、私にとっては大問題でした。

 それはなぜかといえば、この地方の人々に高血圧が多いなどとは全く分かっていない時代ではないかと思うからであります。

 この地方に現在いうところの「脳卒中」の「あだる」が多いというならわかります。「ぼんとあだる」「びしっとあだる」「どたっとあだる」「かする」「しびれる」といった脳卒中が多いというならわかりますが、作者の橋田寿賀子さんが現在の常識から高血圧が多いと書かれたのではないかと思います。

 (草間良男先生のこと. 日本医事新報, 3071, 73-74, 1983.)

  (弘前のこと. 塾友, 338, 58-60, 1986.)

 「脳卒中」につきましては昭和10年代に慶応の内科の西野忠次郎先生を中心に「脳溢血」の総合研究が始まりました。その中ではじめて脳溢血の成因に関する衛生学的研究が東北大学の近藤正二先生らによってなされました。その先生の弟子の高橋英次先生が弘前大学の初代の衛生学の教授で私は助教授としてきたのです。

 私達が行った研究方法は「疫学的」研究でありました。またその目標は「東北地方の人々の脳卒中・高血圧の予防」でした。

 「疫学的」というのは、中国伝来の「易」ではなく、人々の上にという語源をもつエピデミオロジ−で、この考え方はヒポクラテスの時代からありましたが、1854年ロンドンでのJ・スノ−がコレラが水によって起こるのでないかということをコレラ菌が発見される30年も前に明らかにした近代的疫学的研究方法によっていることです。その歴史的な場所がロンドンのピカデリサ−カスのすぐ近くにありますが、その写真です。私のような「疫学者」にとっては極めて大事な場所と考えております。

 「疫学」というのは従来の研究方法とは違う。すなわち病院・診療所から人々の生活しているところへ出てみるということです。この写真は昭和30年の秋田農村でリヤカ−に血圧計をのせて村から村へ人々の血圧を測って歩いたときのもので、「疫学の原点」を示すものです。

 狼森の診療所にこの地域の人々子供から大人まであつまっていただいで血圧を測定したのが昭和29年8月19日で、このときこの地域りんご栽培地域ですが、子供のときから大人になるまで東北地方の一般的な高血圧状態とちがって正常といいますか高くないことが判明し「りんごと血圧」の研究に入ったのであります。

 戦後アメリカの指導もあって人口動態統計の資料が整備されるようになりました。といってもこのような「ガリ版」すりのものでした。しかしここで示めされた日本のとくに東北地方の人々が早く若く脳卒中で死亡している様相ははっきりしました。

 あまりにも若く多くの働き盛りの人々が脳卒中で亡くなっているか、また東北地方に住む人々が若く早く脳卒中で死亡しているかが明らかになりました。東北6県で30歳から59歳の人口273万5千人のうちで一年間に4253名脳卒中で死亡しておりました。その死亡率、われわれは「中年期脳卒中死亡率」と表現しましたが(人口10万人当り東北地方は156,全国104,四国74)、全国の率で計算するより毎年1422名、一番低い四国の死亡率で計算すると2218名多く東北地方の働き盛りの中年の人が死亡していることを示しましたが、その意義の重要性についてはあまりよく理解されなかったと思います。またそれは「成人病」が日本で言われ始めた時でもありました。

 若く脳卒中がおこるのは多分血圧と関係があるのではないかと考え人々の血圧を測り初めました。

 また人々の血圧をどのように理解するかの「血圧論」をのべそれにしたがって研究を展開しました。

 「血圧論」というのは、人および人々の血圧をどのように考えるかということですが、150ミリ以上が高血圧であるとか、WHOの高血圧の定義とよくいわれていますが、私にいわせればWHOの定義などというものはない、あるものはWHOによって集められたその時の専門家の集約された意見であって、WHOがおすみつきを与えたものでないということです。

 (当時弘前大学医学部で展開されていた研究課題は「シビ・ガッチャキ」という風土病の研究でした。五所川原の増田桓一先生によって報告され前学をあげてその解明に取り組んでおりました。結局ビタミンB2の欠乏を主調とする栄養失調症ということになるのですが、本当のところは分からずしまいに症状はなくなりました。それの研究と一緒に脳卒中・高血圧の研究に入ったのです。)

 りんごと健康とのかかわりも内科・小児科・薬理学的に研究がすすんでおり、弘前医学が刊行され第1巻から研究論文が報告されております。

 われわれは「脳卒中」そしてたぶんその根底にあると考えられた「高血圧」の問題の謎ときに、それも「予防」を主な目標に研究を展開していったのであります。

 昭和36年(1961年)に日本で初めて「脳卒中の予防・治療・リハビリテ−ション」のシンポジウムが開かれております。リハビリは日本にまだないころでアメリカから演者を呼びました。治療については慶応の内科の相沢豊三先生、私は予防の可能性があることを述べました。

 国際的にいうと「すでにその病気に悩んでいる人を治すだけでは本質的に救われない。予防を可能にするために発生要因の探求に取り組まなければならない」と「疫学と予防の会」が発足したのが1966年で、私がアメリカにいった翌年でした。1970年ロンドンで第6回の世界心臓学会によばれて日本の食塩摂取の状況などを報告したのですが、また世界心臓病学会とは別に「予防心臓学会」が発足し今年で第3回目を迎えます。日本で疫学会が誕生したのは3年前であります。このように「疫学」とか「予防」とかにいたるには時間がかかると思います。

 たばこが現在世界的な話題になっており、2000年までにたばこのない世界をつくるというのがWHOの目標になっていますが、これも「疫学的」研究から指摘されたことであります。たばこの対策については日本は極めておくれておりまして、保健文化賞をいただいて昭和天皇の拝謁したときのおみやげのたばこがありました。今度の結婚の儀のときにはようやくなくなったと聞いております。

 先日亡くなられた冲中重雄先生(二すいの冲中で、最終講義でご自分の誤診率を述べて話題になった先生ですが)戦後アメリカへいって日本の脳卒中がなんでも脳出血と診断するのではないかと批判され研究班をつくりました。それが「日本人の脳卒中の特殊性に関する研究」ですが、その研究班に教授になったばかりの私にも参加するよう指名がありました。その推薦をしてくれたのはどうやら当時厚生省の企画課にいた同級の山形操六君と思われます。相沢先生は脳卒中の診断基準をまとめました。いわゆる「冲中分類」です。

 私自身測定した血圧値、普通の血圧計で測れないような人々が沢山おり、子供のような小さい時から血圧が高いという数値が外国で信用されないということから、完全に客観的に血圧を測定記録できる装置を考案し、「弘前方式」とよんでいますが、これまでのいきさつを「覚書」にしました。また近く報告されるWHO−CARDIAC Studyで用いられた血圧計はわれわれのアイデイヤで作られたもので、世界の人々の血圧がこの血圧計によって示めされました。

 また「ナトリウム・カリウム」について炎光分析による方法を初めて疫学的な野外調査に応用することができて、食生活の中の食塩の過剰摂取の問題とリンゴの高血圧予防に及ぼす効果に接近することが出来ました。

 昭和34年の時点で、医学会総会が開かれ、「高血圧に食塩は無関係」と新聞紙上に掲載された時代でした。

 昭和45年1970年第6回の世界心臓学会で高血圧の成因として食塩のことをのべ、国際的に計画をたてて疫学的に追求すべき問題ということを指摘しましたが、最近になってようやくその結果がでる時代になりました。

 昭和47年「日本列島慢性食塩中毒論」を述べました。日本における食塩摂取についての常識が間違っているのではないか、教科書も間違っているのではないか、日本人はいわば「慢性食塩中毒」になっているのではないかということです。人々の食生活に食塩が入ってきた歴史は古く、人々の作り上げた文化と関連がある、そのような意味から「食塩文化論」を述べたことがありました。また文明化とは食塩化である「Civilization is saltization」といったことがありました。

 20年以上に亙って追跡した疫学調査の結果がまとまったのは最近の話で時間がかかるものだということがご理解頂けるものだと思いますが、衛生学雑誌にその結果を報告することができました。それで「りんごと健康」「食塩と健康」の本を書くことができたのですが、これは「追跡的疫学調査の成果」です。疫学調査は時間と金がかかりますが人間の健康問題の把握・解決には極めて重要な研究方法ではないかと考えております。りんごと健康とのかかわりについての研究で研究費を業者から沢山もらったのではないかとお考えられる方がおられるかと思いますが、そうではなく、私のにとっては学者としての精神衛生上はよかったと思います。ただ「学者が学を好むのは酒のみが酒を好むがごとく」といわれた福沢先生のように「学者をかいごろし」してくださるかたがおられたらもっと研究が進んだのではないかと思うこともあります。

 また昭和40年の時点ですが、日本の食塩過剰摂取の害を防ぐためまた牛乳を日本のすみずみまでゆきわたらせることが大事なのだという観点からいわゆる「塩蔵から冷蔵へのコ−ルドチェ−ンの勧告」に参加しました。脳卒中や胃癌の予防になるのではないかと、国家的な干渉であったのですが、その後の経過はよい方向へすすんで来たと思われます。

 (科学技術庁資源調査会勧告15号:食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告. 1965.)

 「食塩と健康」のまとめとして私は福沢先生にならって「少塩のすすめ」を申しあげたいと思います。

 りんごについてはあまりにもながく食生活にあったヨ−ロッパの地域では健康との関わりは証明されにくい面があったのではないかと思います。ところが約100年の間にこの津軽の地域の人々の食生活に影響を及ぼしたために、また「疫学的研究」をやったために、また「ナトリウム」とか「カリウム」とかの測定が容易になりそれをいち早く疫学的研究に利用できたために、それなりの科学的な証拠をもつことができたのでないかと思います。

 疫学的研究がもとになって危険因子「リスク・ファクタ−」ということがいわれるようになりました。私はそれとは逆に利益を与える因子としての「ベネフィイト・ファクタ−」としてりんごを捉えたいと述べました。

  弘前の代官町で生まれ大正14年文学部を卒業された石坂洋次郎さんは弘前高女に1年おり秋田の横手高女に移りましたが、津軽についてつぎのような言葉をのこしました。「物は乏しいが 空は青く 雪は白く 林檎は赤く 女達は美しい国 それが津軽だ 私の日はそこで過ごされ 私の夢はそこで育まれた」です。

 この前半は今も同じだと思います。「物は乏しいが 空は青く 雪は白く 林檎は赤く 女達は美しい国 それが津軽だ」私として付け加えさせていただければ「私の半生はこの津軽で過ごし 多くのことを学んだ。また学びつつある。そして学んだものを世界に発信できた。」となりましょうか。 

(第41回東北連合三田会記念講演,弘前市,平成5.7.10.)

懇親会場で(鳥居塾長佐藤甚弥会長らと

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