わが国最古の医学書といわれる「医心方」の養生篇に
「少思、少念、少欲、少事、少語、少笑、少愁、少楽、少喜、少怒、少好、少悪」
とあり、この十二行を行うことが養生の肝要であり、この十二の「多」を自分の中から除かないと、生の意義の根本を見失ってしまうと解説されていた。
韓国の友人からの今年の年賀状に「健康十則」として
「少肉多菜 少怒多笑 少鹽多酢 少衣多浴 少糖多果 少言多行 少食多嚼 少慾多施 少煩多眼 少車多歩」
とあった。出所は不明とのことであるがそれぞれもっともなことと読み取れる。
そういえば数年前の本誌にも独創的な「保健経」として
「少肉多菜 少塩多素 少糖多果 少車多歩 少忿多笑 少言多行 少慾多施 合掌」
といつでも、夜ベットの中ででも合掌、呪文を唱えるように繰り返して覚えて、そのいつくかでも実行に努めることであると紹介されていた。
それぞれ共通点があり、人の考えることは同じなのか。
厚生省が成人病予防のために「食事はいつも腹八分目」と発表したことがあったが、これは貝原益軒の「養生訓」を連想させる。だが養生訓には「腹八分目」とはずばり書かれていない。
「飲食」の部に「珍美の食に対するとも、八九分にてやむべし。十分に飽き満つるは後の禍なり」とあった。
若い時から勉強家であり、「日本の醫 中華に及ばざる」とし、八十五歳で天寿を全うした益軒先生がその一年前に書いた「養生訓」の基本は、中国医学の伝統と自らの経験を踏まえて会得した「わが身をそこなふ物を去るべし」という思想からでていると思われる。
何百年来いわれてきたことはどのような生活背景から生まれてきたことなのか。
中国で「少」が説かれ「飽食の害」が指摘されたのはどのような時代であったのか。
中国でも日本でも一般には食べるものもない時代ではなかったか。
現代の食生活について今の学生は「豊食の時代」と書く。いまこそ「少」への反省があってもよい時代と思うのだが。
だがそれぞれどのような科学的証拠によって云われたことなのであろうか。
「科学的証拠など必要はない。必要なのはそのような事実なのだ」といってしまえば、そこで科学の進歩は止まってしまうと考える立場をとるものである。
今度「食塩と健康」(第一出版)として科学的証拠をまとめてみたが、その結果から「学問のすすめ」にならって「少塩のすすめ」としたいと思う。