衛生」をめぐる人々

 

 東京医科歯科大の北博正教授が衛生学の試験に「ペッテンコ−フェル」について記せという題を出したら、ある学生がその答えに「北教授の大先輩」と書いたそうだ。及第点をあげないわけにいかなかったであろう。 ミュンヘンに初めて「ヒギ−ネ」の研究所をつくったペッテンコ−フェルは「衛生学」をやる者にとっては大先輩にあたる。私もミュンヘンへ行ったとき、古い墓地の中に「ペッテンコ−フェル」の墓をさがして、墓参りをしてきた。

 私にとっては「ヒギ−ネ」のもとになった「ハイジエイア」の思想にひかれるものがある。

 ハイジエイアがルネ・デュボスが述べているように「理性に従って生活するかぎり、人間は元気にすごせる」という信仰をあらわしたものと考えるからである。

 ヒポクラテスで知られるギリシャのコス島の博物館に「ハイジエイヤ」の像があり、それを「世の中ではじめてスナップした」ことは私にとって忘れられない思い出である。

 

 そのハイジエイヤにあたる言葉として日本では「衛生」をあてはめているが、この「衛生」をはじめて日本に輸入した長与専斉の生誕地をおとずれる機会があったので報告しておこう。

 大村医師会の学術講演によばれて案内していただいた。

 長与専斉の家は数代大村藩に仕えたとあり、その旧宅が大村市の史跡となって現在大村国立病院構内にあるのだが、生誕地は別のところにあった。

 それは田崎甚作氏の「阿古屋荘」の庭の中にあり、「長与専斉先生生誕の地」とあった。

 

 長与専斉の「松香私志」に「風と荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれとも字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれを健康保護の事務に適用したりけれは」とあることはよく知られている。

 

 それにしても長与専斉の「松香私志」の中に、衛生局長になる前の医務局長の相良知安について、ほとんどふれられていないのはどうしたことであろうか。

 

 明治5年2月に文部省に医務課が置かれ、翌6年3月に医務局になり、初代の医務局長になったのは相良知安であり、「医制略則」をまとめるが、その後6月に局長になった長与専斉は「医制76条」を制定する。

 彼の「松香私志」には、医学教育の整理について相良知安の名をあげているだけで、医制については彼の名を挙げていない。

 長与専斉は明治4年11月、岩倉公と共の大村候のおともで欧米を回っている。6年3月に帰国するまで欧米で見聞きしてきた国民一般の健康保護を担当する特種の行政組織があることを発見しているが、「医制を起草せし折、原語を直訳して健康若くは保健なとの文字を用ひんとせしも露骨にして面白からす」といって”ナウイ”言葉として「衛生」を局名にした長与専斉にとっては「医制」は自分が作ったとの思いが強かったのであろうか。その後18年もの長い間、局長は長く専斉に与えられ、日本国中「衛生」は市民権を得た。

 

 また相良知安の筆になる「護健使」の思想はどこからきたものであろうか。その内容をみると日本伝来の「保護健全の皇道」がのべられており、それに「医は元来病を治す術であるが、今日日新の医学はこれだけでなく、健康を増進しさらには疾病予防につとめ、寿命の延長をはかるべきである」と考えたようであるが、こんな思想はどこから来たのであろうか。相良知安の師のオランダ医師のボ−ドインの影響であろうか。           (弘前市医師会報,215, 48, 平成3.1.5.)

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