小野淳信先生卍賞受賞のお祝いの言葉

 

 佐々木直亮です。まず自己紹介しなければならないのですが、

実は昨年10月に津軽書房から「解説・現代健康句」という本を出版して戴きまして、初めてこの会に出席させて戴く資格ができたような次第でありますが、ご指名でありますのでお祝いの言葉を申しあげたいと思います。

 この本のカバ−に略歴が書いてありますので自己紹介は省略させて戴きますが、昭和29年に弘前に住むようになりまして、すぐに山口先生と小野先生と知り合うことになりました。

 本当に両先生今回卍賞受賞おめでとございました。

 

 私には主として小野先生についてお話しするようにとのことですが、先生のお名前は「あつのぶ」とおよみするのが正しいものと伺っております。前に新聞に「じゅんしん」とふりがなされたことがあり、通常よく「じゅんしん先生」とおよびしておりますが。

小野淳信先生 平成6.1.22.

  先生は大正元年12月18日福島県棚倉でおうまれになっております。今日満81才を迎えられた先生のことをすべてお話しすることは出来ませんが、その背景に「たびごろも−小野家の人々」の伝統があることが伺われます。

 特に苦労されて医師になられた父上(誠淳:しげあつ)の影響を考えざるをえません。明治44年朝鮮、いまの韓国の忠清南道、天安へ移られて医療を行っておられたので、小野先生が小さい時育った幼児体験が先生の現在を作っているように思われます。すなわち「韓国人と分け隔てなく接していた生活」「袴をはかされて小学校へ行かれたという厳しいしつけ」「SLに魅力をもったこと」「そして機械いじりのすきなこども」それは現在の「ONO−Film]そして「学校保健への熱情」につながっていると思われます。

 

 先生のペンネ−ムは「柊葉」(シュ−ヨウと読む)です。

この柊(ヒイラギ)の葉の名前の由来は旧制中学5年生の時とりこになった美しい女性の思いが込められているとのことです。

 「彼女はいそいそと彼を出迎え、親しそうに話をし、彼を山の麓の駅まで送って行った。呆然と見送る私の目に二人の姿が消えていった。庭角の柊の尖った葉の一群が風にさやさやと鳴っているのが胸に沁み入るるように眺められたのであった。」と書いておられます。

 

 次はロマンにあふれた北海道大学時代であろうと思います。

衛生学の井上善十郎教授の影響と思われますが、将来の道として予防医学を考えて居られたことがあげられると思います。

 しかしその中で陸軍軍医として出征され・結婚し・戦時中の経験・そして終戦と、多感な青年時代をすごされたことと思われます。

 そして郷里で保健所長として再出発されたのです。パ−ジになって開業、下北たなべでの開業、教育委員会での活躍などがありますが、そのあと弘前保健所長になってこの弘前での活躍が始まったということになるというわけです。といっても40年近く前ですが。

 

 弘前の保健所長になられたのは昭和29年ですが、この時先生にお目にかかることになるのですが、先生はききとして活躍されていたことを思い出します。

 しかし当時の保健所長の給料はなにせ薄給でして、奥様に苦労をかけ止むなく開業にふみきられた訳と伺っています。

 当時のことで地元の新聞に青森県では大事な保健所に人はいらないのかと、給与体系の低さについて私も投書をしたことを思いだします。

 

 先生が最初に書かれたご本の名前が「鷺草」(さぎそう)ですが、これは昭和42年に最愛の奥様を亡くされ「初めて人生の悲愁(かなしみ)にふれた」時出されたものです。

 「この可憐な野の花よ か細い茎の上に たよりげなげに 白い翼をひろげ そよ風にさえ ゆられながら・・・恭子よ お前は白鷺となって 飛んで行ったのか」と書かれています。

 「母恋いの 涙の痕や 鷺草花」と詠まれています。

 

 でも日常の診療活動の中に経験される話は先生の文才を刺激しないわけにいかなかったと思いますが、それが医者の歳時記としての「あっこちゃんの先生」で数多くの随想が盛られています。

 この「あっこちゃんの先生」の「先生」は四才の女の幼児語としての「シェンシェイ」というのが本当であって、小さい患者さんはじめ多くの患者さんをめぐる話が語られております。

 その中で先生の意気がいは日本中で先進的な歩みを示していた弘前での学校保健活動であって、石郷岡正雄先生のあと会長を引き継がれた弘前市学校保健会の活動であったと思います。

 

 先生が77歳の喜寿を迎えられた時、それまでに書きとめまとめられていたものをなんとしても本にしたいという「内心の誘惑にかられ北の街社の斉藤せつ子さんへ電話を入れてしまった」、とあとがきに書かれていますが、これが先生の「生きると云うこと」でありました。

 しかしこの中に書かれていることが先生の我々に対するメッセ−ジであり、学校保健への生きがいを教えて戴いたものと思います。

 

 そして「医師として生きてきた私の生涯に、仏教の精神的糧が基調として無かったならば、私の今日は無かったであろう」と書いておられますが、先生が若い頃影響を受けた仏教そしてその延長線上にあるかと思われる東洋医学への造詣があると思われます。

 われわれ医師は西洋医学の中で教育され実践しているもので、日々進歩する西洋医学も勉強していかなければなりませんが、また東洋医学の方は経験をつめば積むほどよい医療になると思います。

 50年前の医師免許状が有効なわけですが、また幾つになっても人の為に役立つ医師であることができると思います。

 その点この度のような卍賞はインドの「吉祥の表示」ということですが、ここで終ったというのでなく長寿の家系に生まれられた先生の余命はあと20年以上あると推測されますので、われわれのためにいろいろとお働ききになって戴きたいものだと思います。

 本日は本当におめでとうございました。

(山口寿・小野淳信先生シルバ−卍賞受賞祝賀新年会/於ホテルニュ−キャッスル 平成6年1月15日)

(弘前市医師会報,233,73−74,平成6.2.15)

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