第1回物語

 

 何事も第1回の事初めは意義があるものだと思う。

 それもその会が1回だけで終わりにならないでその後何回も継続される場合には歴史的意味をもってくる。

 その第1回の会にめぐり会うこと自体めったにないことだろうけれど、その第1回の会合の基調講演などを述べる機会が与えられるような場合にめぐまれることは学者冥利につきるものだといえよう。

 弘前大学医学部の衛生学講座の教授を長らく勤めた者として「第1回物語」として特に青森県に関連のある事項について記録しておく。

 

 弘前大学医学部は昭和19年に青森県青森市に設立された青森医学専門学校から数えて近く50周年を迎えることになるが、昭和20年6月19日東北大学医学部から出張講義に来られた近藤正二教授によって初めて「衛生学の講義」が行われている。

 青森県に「衛生学」が入った第一目であるという考え方から、それから満25年を迎えた日に同門の者が集まって記念事業を計画し過去をふりかえると共に将来への展望をこころみようと考え「衛生学開講25年記念誌」としてまとめた。

 昭和22年2月14日「衛生学講座の初代の教授」として高橋英次教授が発令になった。

 昭和22年10月19日「第1回予防医学談話会」が弘前女子厚生専門学校で開かれた。

 話題は「食生活実態調査成績」高橋英次、「天間村村民生活調査成績」鳴海吾郎、「弘前市内数カ所の塵埃測定成績」安保で、この会はその後衛生学教室と交互に4回開かれている。

 昭和22年10月31日「第1回日本公衆衛生学会」が伝染病研究所講堂を主に開催された。青森医専高橋英次教授らの「近視と体格体力に関する研究」が報告された。

 日本公衆衛生学会が開催されたのが昭和22年からであるがそれを受けた形で「青森県地方会の第1回集談会」が昭和25年3月11日弘前保健所を会場に開かれた。その後昭和27年まで5回開催された。

 昭和26年6月10日「第1回東北地方公衆衛生学会」が東北大学医学部公衆衛生学教室で開催された。瀬木三雄教授の提唱で日本公衆衛生学会の地方会というのではなく、「東北地方公衆衛生学会」として発足した。以後いろいろのいきさつをへて「東北公衆衛生学会」として東北6県持回りで継続開催されている。

 昭和29年7月23日青森県北津軽郡三好村において「住民の血圧調査」が行われてた。この調査はその後衛生学教室で行われることになった青森県内秋田県内住民の血圧に関する疫学調査の第1回目の調査である。

 また同年8月19日行われた弘前市狼森地区住民についての血圧調査はその後約20年に亙って継続観察されることになった。

 昭和29年10月9日から10日にかけて「第1回日本学校保健学会」が開催されたが、東北地区代表として高橋英次教授が「東北地方に於ける口角炎の分布」を講演した。弘前大学医学部をあげて「シビ・ガッチャキ症」の究明に取り組んでいた内の、地域社会における調査結果の報告であった。

 昭和31年7月1日弘前大学医学部に佐藤熈教授を会長に「積雪農村医学研究会」が発足した。

 その第1部として「シビ・ガッチャキ症」(班長荒川雅男教授)として同年9月14日第1回の会議をもった。同年9月1日衛生学教授に発令された私が幹事になった。記録は弘前医学に掲載されることになった。

 昭和32年7月28日「脳卒中対策」について依頼があった秋田県西目村へ出向いた。現地調査の結果「全村血圧調査」を継続してやることになって、その第1回の調査が同年12月12日から行われた。

 昭和32年11月15日青森県地域婦人団体連合会主催の「第1回生活改善推進大会」が行われ、「栄養改善のむずかしさ」のパネリストとして出席した。

 昭和33年2月8日「第1回農村文化談話会」が浅虫温泉で開催された。昭和35年まで4回開催された。

 昭和33年2月23日青森県南津軽郡尾上町金屋地区の「第1回の住民の血圧調査」が行われ、その後昭和50年まで継続調査された。

 昭和33年7月3日「第1回日本産業衛生学会東北地方会が東北大学医学部で高橋英次教授主催で開催された。以後現在に及ぶがその中で第18,28,37,43,49回と青森県内で開催されている。

 昭和33年7月12日「第1回みちのく会」が作並温泉岩松旅館で開催された。仙台で始まった東北地方公衆衛生学会が東北6県を一回りして第7回として仙台で開催された機会に、東北地方の大学の衛生公衆衛生関係教授懇談会をもつことになった。以後この会を「みちのく会」と称するようになった。

 昭和33年7月26日「青森県夏季保健活動」の第1回目の連絡協議会が医学部会議室で行われた。その後の経過については弘前大学保健医学研究会の記録「明日の健康を求めて」に記されている。

 昭和33年8月28日「第1回青森県台所会議」が近藤とし子、山岸正子女史を迎え青森市内自治会館で開催され、私と武田壤寿助教授が出席した。 

 昭和34年1月27日弘前大学積雪農村医学研究会の第2部として「血圧研究班」(班長佐々木)の第1回の会議が開催された。

 昭和34年3月4日弘前大学医学部「癌研究会」(世話人品川信良教授・大星章一助教授)第1回例会が北臨床講堂で開催された。

 昭和33年度に「公衆衛生学講座」が増設されることになり、昭和34年4月初代教授として中村正教授が着任した。

 昭和34年11月24日「青森県保健福祉地区組織育成連絡協議会」(会長鳴海康仲)が発足した。副会長になった。

 昭和35年11月16日「第1回弘前学校保健大会」が弘前三中を会場に開催された。「健康への道」の特別講演を行った。

 昭和36年1月13日「弘前大学スキ−同好会主催第1回講習会」が大鰐スキ−場で行われた。

 昭和36年3月8日弘前大学医学部に「循環器同好会」(世話人大池弥三郎教授)が発足した。

 これがやがて脳卒中研究施設設置を推進することになった。

 昭和36年4月に「青森県ヨット連盟」が発足した。初代の会長になった。同時期医学部学生を中心に弘前大学ヨット部が発足した。

 昭和36年7月21日「第1回青森県環境衛生大会」が青森市で開催された。パネル「地区の環境衛生活動の現状とこれが対策」に中村正教授と私が出席した。

 昭和38年2月1日「青森県成人病対策協議会」が発足した。委員として出席した。

 昭和38年5月25日「科学技術庁資源局第1回成人病問題に関する会議」が行われた。資源調査会専門委員として出席、「農村生活において解決すべき問題点」を発表した。

 後日昭和40年1月26日に科学技術資源調査会勧告第15号「食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告」としてまとめられた。いわゆる「塩蔵より冷蔵へのコ−ルド・チェ−ン」の勧告である。

 昭和38年6月15日「保健福祉研究会」(会長佐々木直亮)が発足した。中村正教授らと青森県から委託された「健康水準調査」などを行った。

 昭和38年7月14日「第1回八戸地区公衆衛生大会」が開催された。「成人病、とくに高血圧について」の特別講演を行った。

 昭和39年3月23日「青森県成人病予防協会」が発足した。理事に委嘱された。

 昭和40年10月20日「第1回青森県赤ちゃん会議」が青森市で開催された。青森県医師会長・弘前大教授らが出席し会議をもった。

 昭和41年2月24日「第1回青森県衛生部職員研究会」が青森市で開催された。武田壤寿助教授が助言者として出席した。

 その後衛生学公衆衛生学講座の教授・助教授が助言者として出席するようになった。

 昭和41年3月「日本循環器管理研究協議会」が発足した。理事になった。昭和55年5月24日弘前大学で第15回日循協総会を行った。

 昭和41年8月22日「青森県地区組織連絡協議会」が発足した。顧問となった。

 昭和42年8月31日「弘前大学医学部衛生学教室News,No1」が発行された。

 「この3月に新校舎6階に移転しました。この機会にお互いの連絡を深めう意味でNewsを発行することにしました」とはしがきに記されている。

 昭和43年1月25日「衛生学公衆衛生学合同の抄読会」(第1回)が開催された。公衆衛生学臼谷三郎教授が新任され合同で抄読会を開くことになった。

 昭和44年8月2日「第1回脳卒中研究懇話会」が十和田湖奥入瀬荘で開催され、「脳卒中発作の疫学」を発表した。

 この会を母胎として昭和48年7月に「第1回脳卒中研究会」になり、昭和51年に「日本脳卒中学会」が発足することになった。

 昭和45年4月「日本心臓財団」が発足した。評議員になった。

 昭和45年11月1日「第1回青森県公害審査会議」が行われた。委員として出席した。

 昭和46年6月「青森県農村漁村健康調査委員会」が発足した。委員となり、健康調査(未熟児・循環器・癌など)について報告書を出した。

 昭和46年6月22日「青森県農薬危害調査委員会」が発足した。委員となった。委員会報告書がある。

 昭和47年12月1日「日本医学文化保存会」が発足した。評議員になった。

 昭和48年8月18日「第1回むつ総合病院祭」が開催された。招請講演「脳卒中と高血圧の予防」が行った。

 昭和49年2月20日「第1回山形県公衆衛生大会」が山形市山形衛生研究所で行われた。「研究する心、コホ−ト分析的思考法の実例から」の特別講演を行った。

 昭和51年2月13日「第1回日本脳卒中学会」が東京都経団連会館で開催された。衛生学教室から「東北地方農村における脳卒中死亡発作の実態と生前の血圧との関係」を発表した。

 昭和51年日本循環器管理研究協議会に「自動血圧計検討委員会」が発足することになり、委員長になった。

 昭和51年10月11日「The First Asian Pacific Symposium on

Hypertension」が東京都経団連会館で開催され、「Epidemiological

studies on hypertension in the northeastern parts of Japan」を発表した。

 昭和52年5月30日「第1回青森県国保保健施設学会」が青森市で開催され、蓮沼正明助教授が助言者として出席した。

 昭和53年9月11日「第1回青森県雪問題検討委員会」が青森市ホテル青森で開催され、委員として出席した。

 昭和53年12月6日「第1回日本高血圧学会評議員会」が横浜市華正楼で開催され、翌7日「第1回日本高血圧学会」が横浜市神奈川県立音楽堂で開催され、「最近の日本人の血圧の動向について」を発表した。

 昭和54年7月23日医学部第2内科(小野寺庚午教授)が世話人になって「第1回高血圧カンファランス」が開催され、「高血圧研究の展望、若い研究者のために」の特別講演を行った。

 昭和55年3月25日「第1回青森県地域保健医療対策協議会」が青森市グランドホテルで組織会が行われ、委員として出席した。

 昭和55年11月20日「Ist International Symposium on Hypertension and the Japanese」がハワイ・カウイ島で開催され、「Salt Intake and Hypertension in the Japanese」を発表した。

 昭和56年2月7日「第1回食塩と高血圧カンファランス」が東京都パレスホテルで開催され、竹森幸一講師が「濾紙法による24時間尿中食塩排泄量の測定」を発表した。

 昭和56年9月9日「第1回青森県成人病予防大会」が青森市民文化ホ−ルで開催され、シンポジウム「がんで死なないために」に助言者として出席した。

 昭和57年12月2日「第1回東日本公衆栄養学会」(名誉会長佐々木直亮・会長菊地亮也)が秋田市立つ文化会館で開催され、3日に「健康面からみた食塩文化論」の記念講演を行った。

 昭和59年11日14日「第1回青森市医師会脳卒中懇話会」が開催され、「脳卒中の疫学、過去現在そして未来」の特別講演を行った。

 昭和60年3月9日「第1回医療情報研究会」(世話人渡辺俊三助教授)が内科ゼミナ−ル室で開催され、「私とコンピュ−タとの出会い」を講演した。

 昭和60年4月1日日本健康科学学会が発足し、評議員になった。

 昭和62年度青森県生き生き健康県民運動会議が発足し、同推進委員会の委員長になった。

 昭和62年10月11日「第1回黒石市健康とスポ−ツフェスチバル」が開催され、「長寿とライフスタイル」の特別講話を行った。

 昭和63年7月27日仙台市で「第1回全日本民医連高血圧交流会」が開催され、「血圧について考えること」の特別講演を行った。

 昭和64年6月3日弘前市文化センタ−で「第1回東奥健康講演会」が開催され、「ベネフィット・ファクタ−」の特別講演を行った。

 平成3年日本疫学会が発足し、1月24日第1回の学術総会が国立がんセンタ−国際研究交流会館で開催された。名誉会員に推薦された。

 平成3年菅原和夫・三島和夫教授らが発起人になり体力・栄養免疫学研究会が発足し、7月27−29日群馬県北軽井沢で第1回サマ−カンファレンスを行い雑誌(1巻1号)を刊行した。第2回の研究会を平成4年7月29−31日岩木町で開催した。

 

 第1回で始めたものの数回で終ってしまったもの、また現在まで継続開催され回を重ねてきたもの色々である。この他に私として参加する機会がなかった沢山の第1回物語があると思われ、それぞれ歴史を重ねていることであろう。

 「第1回物語」として弘前大学医学部衛生学講座に関連あるものを主に記録した。

弘前市医師会報,230, 36-39, 平成5.8.15.)

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