卒業五十周年ということで義塾から招待状がきたので日吉で行われた慶応大学の卒業式に行ってみた。
久しぶりにみた並木の銀杏が大きく太くなっていた。
日時に三月二十三日午前九時半とあったのに時間になったがなかなか始まらず、お祭りのようににぎやかであった。定刻に遅れませんようにとか、式場は体育館で暖房がありませんからとか案内の書状にあったのに、開式は十時であった。それならそうとと腹を立ててはいけないと思いながら、われわれのときはどうであったか思い出していた。
卒業が繰上げになって昭和十八年の九月であった。
「学窓から軍装へ」の見出しと学生が三田の山から下りてくる姿が翌日の新聞にのっていたような思い出がある。そんな時代であった。
それから五十年、バンドにのって塾長以下登場してきた。
学事の報告そして「学位記」が代表に手渡された。
石川忠雄塾長の式辞は内容は良いと思ったが少し長すぎた。どれだけ学生の頭に残るものなのか。
日本医師会長の村瀬敏郎君の来賓祝辞があった。卒業式の時小泉信三塾長から「眼が輝いている諸君」と云われたとか「医局に入らず、就職を三田に頼んだ話。そして他大学の人達の中で苦労した話」「しかしどこでも三色旗を忘れず」とか記憶に残ったが、いずれ詳しくは「三田評論」に載ると思ったので塾長の話も共に聞き流した。
成績また体育優秀者等が表彰されていた。体育系の学生らだけが制服を着ていた。
卒業を前にして「慶応義塾奨学資金規定に依り特選生として故中上川彦次郎君記念奨学賞」を授与されたことを思い出した。
これがあれば就職疑いなしと実業畑にいた父が云っていたが、医学畑へ進んだ自分には何の役にも立たなかった。
奨学金をもらうかわりに記念に当時発刊され始めた「福沢選集」を戴きたいと第四集の一冊をもらったが、あとは出版出来なくなって終ってしまった。そんな時代であった。
海軍軍医になって他大学人達に負けてはならじと頑張ったせいか卒業の時海軍軍医会長から「白鞘短刀壱振」をもらったが、これも目録だけに終ってしまった。
でも命だけはほんのちょっとした違いだけで多くの友人のかわりに長らえた。
そのおつりのまたおつりの人生を、それなりに生き抜いてきた。
予科時代を送った日吉の校舎はそのままだったが、その階段講堂で植物の岡村周諦先生が最初の講義の時間に「朱塗のお椀とお盆」をもって現れたことが記憶にある。
生体の細胞説を唱えた「シュワン」と「シュライデン」をわれわれに印象ずけるためにもって来られたのであろう。
五十年以上も前のことがいま思い出されるのである。
その「シュライデン」が一八七五年にまとめた「ダス・ザルツ」をようやく見つけて読むことができた。その中で健康とのかかわりについては殆ど述べられていないことがわかったが、その後の展開をまとめて「食塩と健康」(第一出版)にまとめることができた。
先の「りんごと健康」についで「食塩と健康」を出版することができて、いつでもお迎えがきてもよいと思うようになった。