「せんせい せんせい それはせんせい」と森昌子が唱ったのは乙女の「淡い初恋」であったのだろうけれど、色々のことを教わり心から素直に「先生」と言える方々や奥様方が相次いでお亡くなりになり、心寂しく感ずる今日この頃である。
先に生まれたからではなくて、物を教われば「それが先生」だと言われた方があったが、その流儀でいけば最近は若い方々から新しい知識を教えられることも多いし、スキ−やゴルフの先生が身近には沢山いる。
医師や教師は先生と言われることが多いが、世の中には先生と言われないと機嫌の悪い人がいるものだと聞いたことがある。私の学んだ慶應義塾では先生というのは福澤諭吉先生で、あとはみな「君」ずけで呼ばれるとよく言われるが、当のご本人は「僕は學校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、これを総称して一社中と名け・・」と書いている。
しかしその先生が医師とか学者には大した期待をもっていたことが分かる。北里柴三郎が帰国した時に書かれたと考証されている「贈医」(医に贈る)と題する(医師よ自分たちは自然の家来に過ぎないなどと言うてくれるな・・・)の七言絶句(弘前市医師会報212号)や「學者こそ真の國家の寶」とも「既に醫を選んで之に託したる上は醫師の命令に背くことなきの一事なり」と「謹んで醫師の命に従ふ可し」とも(福翁百話)に書いている。
それから百余年。われわれ医師や学者が「真実の學醫」として人々の期待に応えるものであったかと思う。
「先生」「先生」と言われ「ナオスケ先生」が私のトレ−ドマ−クになって数十年を過ごしてきてしまった。
昨年は「戦後五十年」を書いたが、今年は「日本百年」の中で「先生」をテ−マにして正月の反省にしたい。