6 「塩」から塩化ナトリウムへ

 

 生物学の始祖といわれるアリストテレス(Aristoteles,384-322 B.C.)は宇宙の構成要素を火、水、空気、土の4元素として捉えていた。また海水が塩からいのは「地上の物質のある部分」が海の水に混ざっているせいだと考え、その部分は木の灰に似た「焼けた土」だとした1)。

 ギリシヤ・アレキサンドリア・ロ−マにつづくイスラムにおいて練金術が発展し、化学の発達に役立つことになるが、パラケルスス(Paracelsus, 1493-1511)は4元素(エレメント)の代わりに、物を構成するものは揮発する部分としての硫黄、液性で可変型の水銀、不燃・固形の部分を象徴する塩の3原質(プリンシプル)と考え、医化学の道を開いた2)。

 17世紀になってフアン・ヘルモント(J.B.van Helmont, 1577-1644)はアリストテレスおよびパラケルススの物質観をしりぞけて水および空気の2つをすべての物質の基本と考える。気体に注目し、ギリシヤ語のchaos(真空の意)に基づいて「ガス」という言葉を導入する。また醗酵(ファ-メンテ-ション)に思いをめぐらすが、酸・アルカリの考えにつながる研究が行われ、当時の学者は醗酵の異常に基づく体液の酸・アルカリの平衡の失調をもって多くの病気を説明しようとした2)。その当時海の塩はすべての塩の起源だが、それ自体はアルカリと酸から生じるもので、アルカリは地上の大火災からできた灰によって供給され、酸は動植物の発酵と腐敗によって供給されると書いた学者もいたという1)。

 カリウム化合物とナトリウム化合物が区別されたのは16世紀のころである。

 18世紀後半になって近代的な化学が確立されることになるが、「燃焼」についての論議が展開される中で、プリ−ストリ−(J.Priestley, 1733-1804)は「フロギストンを取り去った空気」を発見したが、ラヴオアジエ(A.L.Lavoisier, 1743-1794)はこの気体を生命の空気と呼び、「酸素」(oxygen)と名づけた。彼は燃焼および呼吸が同質の化学反応であることを明確にし、現在の栄養学の基礎を与えることになるのであるが、元素を単体(一種類の元素からなる純物質をいう)と呼び、これを4群に分け、(a)酸素、窒素、水素、光、熱素、(b)イオウ、リン、炭素、(c)17種の金属、(d)灰、バライタなどの土類であると考えた。その彼が塩税の徴税を請け負っていたことが、フランス革命の時彼を断頭台におくることになった。

 このようにいまや空気も水ももはや元素(エレメント)ではないと考えられるようになるのであるが、プリ−ストリ−の気体研究所に入ったデ−ヴイ−(H.Sir Davy, 1788-1829)は、電気分解により、初めてアルカリおよびアルカリ土金属の分離に成功し、カリウム、ナトリウムを1807年に遊離した。塩素は1810年元素であると主張した。

 ナトリウム(Natrium)という名称は、天然ソ−ダやアルカリ塩を意味するギリシヤ語(nitron)に由来し、ソヂウム(sodium)は炭酸ナトリウムが古くからソ−ダ(soda:頭痛の薬を意味するアラビヤ語(suda)に由来する)と呼ばれていたいたことに基づいて命名された。

 クロ−ル(chlorine:塩素)は単体の塩素気体が黄緑色であることから、ギリシヤ語(chloros:黄緑色)にちなんで命名された。

 カリウム(Kalium)は灰を意味するアラビヤ語(qali)に由来するラテン語(kalium)の音訳で、ドイツ語ではそのままKaliumであり、英名ポタシウム(potassium)はpot(つぼ)のash(灰)に由来する3)。

 ナトリウムと塩素の単体は化合して塩化ナトリウム(sodium chloride)となる。

 一般に酸と塩基(アルカリ)との反応によって、水とともに生じる物質を「塩」(えん)または「塩類」(えんるい)というが、塩酸(HCl)と苛性ソ−ダ(NaCl)と反応させると塩化ナトリウム(NaCl)と水(H2O)ができるが、これは「塩」(えん)である。「塩類」(えんるい)というものは酸の水素原子(H)を金属(例えばNa,K)で置換したもの、塩基の水酸基(例えばCl)で置換したものとも定義できる。いろいろの「塩」(えん)のうち、塩化ナトリウムは、とくに「食塩」と日本薬局法で呼んで、他の「塩」(えん)と区別している。ドイツ語で「Koch Salz」(料理用塩)とか英語で「common salt」(一般普通の塩)という場合も普通塩化ナトリウムをさす。

 塩化ナトリウムは古く知られていた海水の塩の主たる構成成分であることが判明するが、海水や岩塩の塩には塩化ナトリウムの他、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム、硫酸カルシウム、硫酸カリウム、炭酸カリシウムなどが含まれている。海水1000グラム中にはそれぞれ27.2, 3.8, 1.6, 1.3, 0.9, 0.1グラム含まれている。

 電気分解の場合、溶液中のアノ−ド(陽極)へ向かっていく粒子とカソ−ド(陰極)へ向かっていく粒子があると考え、(行く)という意味のギリシヤ語にちなんでその粒子を「イオン」と名づけた。アノ−ド(陽極)へ向かう粒子を「アニオン(anion:陰イオン)」、カソ−ド(陰極)へ向かう粒子を「カチオン(cation:陽イオン)」と呼んだ。

 水に溶解してイオンになるものを「電解質」というが、塩化ナトリウムは電解質で、生体内の体液に溶解して、ナトリウムイオン(Na+)、また塩化物イオン(Cl−)として存在し、それが生命を支える生体現象に関連していることが明らかになった。

 また溶液中に溶媒が浸透してゆく力、浸透による溶媒の移行をおさえるためにちようど必要な力としての「浸透圧」を測定するようになり、生物細胞内の原形質はほぼ0.85%塩化ナトリウム水溶液に相当する浸透圧をもつことが判明し「生理的食塩水」といわれるようになった。

 浸透(または浸透作用)とは、低濃度溶液から高濃度溶液へ膜を通過する水(溶剤)の移動である。その膜は水が浸透し、溶解物質は浸透しないようなもの(半透膜)でなければならない。浸透圧(化学力や電気力に拮抗して力を発揮している)を考慮する場合にはモル(mol)とかミリモル(mmol)というグラム分子にあたる質量(粒子の数)ではなく、浸透圧の単位はオスモル(osmol:Osm)とかミリオスモル(mosmol:mOsm)といい、塩化ナトリウムのような物質の場合はナトリウム陽イオンとクロ−ル陰イオンに分離するので、1mmol(ミリモル:分子相当量)のNaClからNa+とCL−の2mOsmの浸透圧を生じる。したがって、濃度が154mmol/kgの等張食塩水も体液と同様に285mOsm/kg近くの浸透圧になるはずである。生理的食塩水とは体液と同じ有効浸透圧濃度(すなわち285mOsm程度)を持つものをさし、この計算の根拠は(154*2)*0.93=286)で、0.93はこの濃度における塩化ナトリウムの解離係数である4)。

 イギリスの生理学者のリンガ−(S.Ringer, 1835-1910)がカエルの摘出心臓を血液の代わりの生理的食塩水で還流するとき、塩化ナトリウムだけでは不十分で、これに塩化カルシウムと塩化カリウムを加えると長く活動を続けることを発見したのは1882年である。リンゲル液として広く用いられている。

 

 ラヴオアジエにつづく18世紀終わりから19世紀はじめにかけての化学の発展は、とくに近代原子論の確立と化学結合論の諸問題をめぐってまことにめざましいものであった2)。

 その中で古く経験的に知られていた「塩」は「塩化ナトリウム」として人々の健康問題とのかかわりが認識されていくことになったのである。 

文献

1)R.P.マルソ−フ(市場泰男訳);塩の世界史.pp.182, 215, 平凡社, 東京,1989.

2)川喜田愛郎:近代医学の史的基盤上.pp.207, 302, 463,岩波書店,東京, 1977.

3)平凡社:大百科辞典,1985.

4)ポマ−ル・フランセス(和田孝雄訳);絵でみる水・電解質.p.16, 医学書院,東京,1982.

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