「疫学」は欧米でいわれているエピデミオロジ−(Epidemiology)に相当するものとして用いられているが、近代的疫学研究はロンドンのコレラの原因を「患者の放散する毒気を吸入するため」ではなく「飲料水を媒体として人から人へと伝播するものであること」を見事な「疫学的研究」によって1854年明らかにしたスノ−(J.Snow)に始まるといわれている1)。
人々の疾病についての原因としての「細菌」説が登場し、栄養素としてのビタミンなどの「栄養不足」説が登場し、20世紀に入って疾病の成因については「多要因疾病発生論」によって考えられるようになってきた。
医学の展開の歴史の中で、古くから人々の生活と健康との結び付きを考えるという疫学的な考え方がなかったわけではないが、今までは個々の症例の疾病を出発点として臨床医学的接近がはかられ、その原因を個々の症例として、また人間の部分としての病変への病理学的接近によってその原因を明らかにしようとし、病気の原因の解明がなされてきた。
疫学的といえば、個々の症例についての臨床的な研究と違って、その症例の背景にある人々について考えなければならない。
ある疾病の「分布」を研究し、その分布を「規定する因子」を追求する。 疫学は人間の集団について、その疾病の頻度や分布を知り、疫学独特の手法を用いてそれに接近してゆくのである2)。
また疾病はすでに出来上がった病像であり、疾病の自然のなりたちである「自然史」が次第に判明してくると、いわゆる健康な人々が病気になってゆくことが問題になり、それを明らかにしてゆくことがまた「疫学」の役目と考えられるようになった3)。
いままでの学問の成果、とくに伝染病予防のための施策の社会的適応とともに、それらをいち早く「公衆衛生」の努力によって実施にうつされたいわゆる先進国の人々は、予防できる病気にかかることなく、死亡することがなくなるから、疾病構造の変貌を来すことになった。
すなわち、その結果として一つには悪性新生物また心臓病などの循環器疾患の問題が顕らかになってきて、それらの疾病の治療だけでなく、その成因・予防についての医学的関心がもたれるようになり、また疫学的研究もそれらの疾病について展開されることになった。
わが国においては昭和時代に結核死亡が大きな問題ではあったが、壮年以後の「脳溢血」死亡が最高位にあることは看過し難い事実であると、日本人の脳縊血についての総合研究が昭和16年(1941年)に始まった。
当時は「疫学」という言葉は一般的ではなく、脳縊血の成因について研究を展開した近藤正二らは「衛生学的研究」4)としていたが、わが国における循環器疾患についての「疫学的研究」の始めと考えられる。
近藤らは脳縊血の成因についての衛生学的研究においてはまず「脳縊血死が60歳以上とか70歳以上とかの比較的高年齢者に多いのか、それとも比較的若い年齢の脳縊血が多いかを明らかにすることが医学的にも社会的にも重大な意義を有す」という見方から、死亡率を分析した。秋田県には50歳未満もしくは60歳未満の脳縊血死のきわめて多い村が多数あること、また同時に地域差があることを認め、これらと関連ある因子として、内因としては素質・家系的関係があること、気候が寒いこと、飲酒とくに濁酒飲用の風があることと脳縊血の多いこと、海岸の漁村に脳縊血が少ないのは海藻を日常食用していることに関連がるのではないか、米の大食はおおいに着目すべき重要な問題であることを述べた。
その中で初めて食塩の過食にふれたが、次のように述べている。
「なお一つ注意すべきは、米の大食が食塩の過食を伴ふことである。米の大食は即ち米の偏食を意味し、殊に7合以上の如き大量の白米食を食する為には自然塩辛きものにて、口を刺激することが必要となるので、栄養上身体が要求するよりも遥かに多くの食塩を食用する食習慣を作る結果となる。之が脳縊血の成因に対し恐らく間接的に関与するものと思ふ」と述べた4)。
近藤は日本各地の各地域単位としての村において、その人口に対する70歳以上の人が何パ−セント生存しているかという「長寿者率」の差を研究の手がかりとして研究した。また脳縊血については、20歳から59歳までの壮年期に死亡するという割合の差に注目し、それが日本国内で地域差があり、東北地方では極めて死亡率が高いということを認めた。また単に脳縊血という病名で死亡するということだけではなく、それが若い働きざかりの年齢から多く死亡するという、死亡率について量的でない壮年期死亡率といういわば質的といえる評価をし、それが食生活としての米の偏食・大食と関係している点を指摘し、その中で食塩の過食についてふれたのであった。
しかし近藤は長寿と食生活との関連を重要視してはいたが、とくに食塩に重きをおいたようには考えてはいなかったと思われる5,6)。
この研究は脳縊血と食塩との関連を実地の人々の生活を観察し、考察したことにおいて重要な意義を持つものと考えられるが、疫学的研究の方法論からいえば、記述疫学(Descriptive epidemiology)7)による手がかりであって、さらに研究を進めていかなければならなかった。
1952年に秋田県衛生部で秋田県高血圧調査が始まるが、食塩について長年生理学的研究、とくに食塩と副腎機能との関連について研究を行っていた福田篤郎らが、秋田県農村での高血圧の実態調査と食塩摂取量の実測を行い、高血圧者の頻度が多いことと293名の尿中クロ−ル排泄量から食塩摂取を1日平均26.3グラムと推定して報告した8)。
しかし福田は、この秋田県農民について行った研究結果について、食塩排泄量とその人々の血圧との間に何等相関関係を示さなかったことから、「食塩過剰摂取に高血圧症に対する疾病論的意義を認め得ない」という見解を述べさせることになったが、この点について著者は公衆衛生学的な立場から批判を加えた9)。この福田の見解はある集団内で、ある一時期における尿中に排泄される食塩量からみる食塩摂取量とそのとき測定された血圧との間に相関関係を認めることができないとする観察結果から考察されたものであって、このような見方・考え方はその後国の内外を問わず各地で多くの研究者から報告されることになり、食塩説を否定する根拠として述べられることになった。
われわれは1954年に「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」を開始したが、脳卒中死亡率の分析を始めると同時に、東北地方人口集団についての血圧測定と生活諸条件の調査を行い、東北地方住民の血圧の実態とそれに影響を与えていると考えられる諸因子、たとえば冬の生活の温度環境を支配する住生活の意義、また生活中とくに食塩摂取量の差、青森県津軽地方を中心に栽培されているりんごの摂取との関連を、ナトリウムとカリウムとの比との関連という見方から研究し、報告してきた10,11)。
これら福田やわれわれの資料は日本における一般住民の高血圧と食塩摂取量との関連を示した資料として、1960年ベルンで開かれた本態性高血圧に関する国際シンポジウムにド−ル(L.K.Dahl)によって、人間における高血圧と食塩との関連についての疫学的事実の一つとして引用された12)。
すなわち日本の秋田では食塩摂取量が多く、高血圧者頻度が高く、広島、アメリカ、太平洋の島、アラスカにおける資料では食塩摂取量が少なくなり、高血圧者の頻度が少なくなるというように、それぞれの地域において日常摂取される食塩量と高血圧者出現率とは平行関係にあるということを示したのであった。
1)佐々木直亮:疫学的アプロ−チ.日本医事新報(ジュニア-),148, 15-16, 1976.
2)MacMahon & Pugh(金子義徳・額田粲・廣畑富雄訳):疫学−原理と方法−. 丸善,東京,1972.
3)Morris,J.N.:Uses of epidemiology. E. & S. Livingstone, Edinburgh and London, 1957.
4)近藤正二・加藤勝男:脳縊血の成因に関する衛生学的研究(西野忠次郎編 :脳縊血).p.63-71, 丸善,東京,1948.
5)近藤正二:日本の長寿村・短命村.サンロ−ド出版,東京,1972.
6)佐々木直亮:食塩をめぐる人々.日本医事新報,3300, 97, 1987.
7)Holland,W.W. and Gildwedale,S.:Epidemiolgy and health. Henry Kimpton Publishers, London, 1977.
8)福田篤郎:秋田県農村高血圧に就て.千葉医学会誌,29, 490-502, 1954.
9)佐々木直亮:脳卒中頻度の地方差と食習慣「食塩過剰摂取説の批判(福田)」の批判.日本医事新報,1955, 10-12, 1961.
10)弘前大学医学部衛生学教室業績集,2-12巻,1956-1985.
11)佐々木直亮:りんごと健康.第一出版,東京,1990.
12)Dahl,L.K.:Possible role of salt intake in the development of essential hypertension.( In Essential Hypertension. Bock K.D. Cotlier P.T.(eds)), pp.53-65, Springer-Verlag, Berlin, 1960.