弘前だより(21)
ゆれに、ゆれましたね。
58年5月26日、丁度昼飯時だった。基礎の、それも上の階のほうがひどかったようだが、次第にひどくなり、いつまでもやまない。ガラスの破れる音があちこちでする。書類箱があるきはじめる。
おさまったあとみたら、図書室の本が皆落ち、廊下に壁のほこりが舞っていた。
「日本海中部地震」だが、大正大地震についで、わが生涯の二番目に大きい地震であった。
幸いなことに、人身事故がなく、火事もおこらず、その点はほっとしたのだが、あと始末のことを考えると心重たかった。
が、その時、誰よりも早く、スキ−部の部員が数名、かけつけてくれたことをここに皆さんに報告しておかなくてはならない。
「何か手伝うことがありますか。皆をよんできますから」
「いや、有り難う」「こちらは夏頃迄にかかって、ゆっくりやりますから」
「図書館の方を手伝ってくれると有り難いんだが」と分館長を併任している自分として返事をした。
ここにあらためて、諸君にお礼を申し上げなければならない。有り難いことであった。
災害は忘れた頃にやってくる。
それからの余震には驚かない。そして四か五の地震なら。
あそこの物がおち、あそこはこうなるだろうと大体の見当がつくようになった。
と、ここまで書いていたら、又ぐらぐらときた。これが弘前の最近のニュ−スである。
前号にお祝いの言葉がのべられていたが、24回生の橋本治久君の結婚式(57.11.23.)によばれたときのことを報告しておこう。
彼は現在、愛媛大第二内科勤務である。
「仲人をされておられる国府先生と同じく高血圧の研究をやっておりまして、今月のはじめにも、アメリカのハワイでご一緒させて戴きました。
そんなことで橋本君とは学会で顔をあわすことも多く、やあ、おめでとうと声をかけただけですむことなんですが、今日は、スキ−部の部長ということでご案内を戴いたと思いますが、一生に一度のことであるし、弘前からかけつけた次第です。
そこで橋本君の学生時代のエピソ−ドを紹介し、お祝いの言葉にかえさせて戴きたいと思います。」
「まず、彼は、学生時代に”白い色は恋人の色”という文章を書いていることを紹介したいと思います。
”恋人”とはここにおられる美しい新婦を前にして、一寸おだやかでない言葉ですが、実は、彼の恋人は、北国であり、冬であり、雪であって、それにあこがれて弘前大学に入学したと書いております。」
スキ−部は一寸お金がかかる。一式十万円もする。おやじのことを思うと・・・(あとで父上がこの言葉はこたえた・・・といっておられた)自動車工場でアルバイトをし、それからは「きのうはぼんじゅね」「今日またあじゃら」と、スキ−スキ−にあけくれました。
久渡寺へのロ−ドワ−クは「苦渡路」で、「アルペンのそろいのセ−タ−三代目」のアルペンで活躍し、後輩(八木君)に「ひそかに片思いのライバルの橋本先輩には卒業してほしくない」といわれた人でした。
追コンの時でしたか、シ−ドをとったが入賞ならず、もっとよい成績が出せなかったのが残念だ。留年して頑張ってもよいが、「教授会が認めてくれないだろう」といった話に付け加えて「成績はシングルだった」ことを紹介しておきました。
そして最後に「松山へ帰って骨をうずめる」といった彼を、あたたかく迎えて下さることを、お二人の将来を祈って、祝辞としました。」
同じくかけつけた「松っつあん」こと松本博成君と三人して肩をくみ「オ−シイハイル」をうたいました。
山内登君が結婚(57.4.17.)されたときはあいにく学会があり、出席できなかたのですが、次のようなメセ−ジを送りました。
「スキ−部部長として、お招きを受けたと思いますが、あいにくあなたの育った名古屋で高血圧の話をすることに先約しておりましたので、欠席させて戴きます。
独特のゆかいな雰囲気をもったあなたと、スキ−部の生活をした人は皆楽しい思い出をもったことでしょう。
いつでしたか、追コンの司会をやったあなたが、乾杯の音頭を私に、といったとたん
「あ ビ−ルがない」とあわてたことがありましたね。
外科の手術のとき、「あ メスがない」ということがないように、頑張って下さい。お二人の幸をはるか祈っております。」
スキ−についてのニュ−スということになると、八甲田のスロ−プにロ−プウエイとは別に、リフトができたこと。除雪が早いので、近く、真冬でもすべれるようになりのではないでしょうか。
昔、雲谷からあるいて、時にはシ−ルをつけて山へのぼり、一日一本だったことなどお正の昔話になりました。
大鰐に第二スキ−場が出来、リフトが二本、第四・第五リフトとふえました。
前の第一と第二の頂上のところでドッキングするようになっていますが、上のところはかなりの傾斜で、一寸尻をついたとたん20メ−トルもすべり落ちて、これが今年の大きな経験でした。
あ なかなかとまらない・・・スキ−ははずれ、ばらばらになって・・・ああ・・といった感じでした。その時いたみもなく、雪にまかせて、すべり落ちていったのですが、あとで体のあちこちにあざが出来て、
「年を考えなくては」と家内からの忠告でした。自分では若い気でいても。
その大鰐のスキ−場でナイタ−が出来るようになったことを付け加えておかなくてはなりませんね。
夕食のあと車をとばして20分、九時までのナイタ−は快適です。
カラ−照明であかるく、ギャップがよくみえて、空は真っ黒、雪面は白く。その上雪質がよくなって、自分でもうまくなったような気のするナイタ−です。
夜も新入生をコ−チする部員。そして忙しい勤務・開業をおえて、夜のスキ−を楽しむ先輩達にあう楽しみもふえました。
そして今この原稿を書いている7月、ゴルフのナイタ−を大鰐スキ−場ではじめたとの広告を新聞でみました。
今回はこの辺で筆をおくことにします。お元気で。 (58.9.24.)
巻頭言:スプ−ル第23号によせて
今年の新入生歓迎コンパは、例の川丁で、三つの部屋をつなげて、盛大の行われた。
こんなことはここ久しくなかったし、多くの新人を迎えたことは嬉しかった。
時あたかも東医体が弘前で開かれるという話を聞いた。
第3回の東医体のスキ−大会が大鰐で開かれたとき、見事弘大医学部が優勝したことは、記録にのこる事実である。ざっと30年前のことだが、今後の活躍を期待したい。
時はすぎ、人は変わる。
寒中見舞いのはがきに、私の定年のことにふれ、オリンピックになぞらえて、あと800日と書いた。
スプ−ルの前半をあるいてきた私だが、ゴ−ルまで、もう一ふんばりしなければならない。
そして24号の時になるか、新しい部長を私として推薦したいと思う。 (59.9.20.)
弘前だより(22)
美しい絵はがきがスエ−デンからとどいた。
「SwedenのMoraからお便りしています。学生時代からの夢でした世界で最も歴史のあるスキ−の長距離レ−スYasaloppet 98kmに挑戦し、完走することができました。朝8時にスタ−ト夕方5時のゴ−ルで苦しい苦しいレ−スでしたが、美しいダ−ラナ地方の自然の中を駆け抜け、また魅力的なスエ−デンの娘さんたちの声援を受け、終わってみるともおう楽しさだけが残っているようです。
明日サンモリツに向かい、エンガデインスキ−マラソンに出てから帰国します。1984-3-5 モラにて 本山」
「ST-Moritに入りました。標高1850mくらいの地で、周辺の山々は3100から3500mくらいのようです。右中央に見える雪山は実は湖です。明日12日このような湖の上を約1万2千人が42kmを走ります。今日は昼間でも-10℃ぐらいで、greenのWaxで気持ちよく滑れました。」
「今日はEngadin Skimarathonでした。42kmでもやはりそれなりに疲れます。3時間20分もかかってしまいました。
Engadin Valleyは本当に美しい谷です。アルペンスキ−にも最適の地と思われます。1984-3-12 サン・モリッツにて 本山悌一」
元気なことである。学生時代の活躍もさることながら、新潟の病理にいて、今も学校のうらの浜までマラソンをかかさない君なれば、と思うのだけれど、うらやましく、又うれしく思う。
スエ−デンの原野をスキ−ヤ−が走る絵はがき、サン・モリッツの冬の風景の絵はがきを戴いた。
二十年に一回という位に寒い日が続いて冬が長く、花のない桜まつりであったが、スキ−の方は東医体が終わったあとも、岩木山、八甲田と随分すべれたのではなかったか。
新歓コンパ(4月27日)のあと岩木山の春スキ−に行って、スキ−にとりつかれた人もあったのでないか。教室の女性も、今年最後になるかもしれないヘリコプタ−に、バスタ−ミナルから頂上まで3000円はらって楽しんできたとか。
今年の東医体は3月田沢湖で開かれたが、近くだったので、中三になった三男繁と一緒に車で応援にいった。
前の日にも雪が降って、道路が心配だったが、安全をとって小坂越えをやらず、大館まわり、安代から高速にのって北盛岡、そして田沢湖スキ−場の宿舎”いろりのある宿仙北”へ約4時間のドライブであった。
松本博成君も休みをとってきていて、OBとして出場もしていたが、近くにヒュッテをもっている佐藤浩正君、そして相沢健治君もやってきて、ワインとすしのさし入れに、先輩は有り難いものと皆思ったことだろう。
佐藤ゆかりちゃんのデイスタンスの優勝に、又飯塚拡応君のアルペンの久々の入賞に、又リレ−に、”きらきらと”かざりたてた第二チ−ムも出て、楽しい東医体ではありました。
今年の追コンは2月10日に川丁で開かれ、神山亮一、井上貞宏、後藤みずほの三人を送りました。
つい先日入学したとばかり思っていたのがもう卒業とは。
”ス−パ−スタ−””雲の上の人”といわれた神山君をみて、”おれは医進の2年で追い抜こう”と後輩をかりたてた。シ−ドをとった君だったが腰をいためて、東医体の優勝を失したことは残念なことだったろう。
”井上さんにさそわれて”スキ−部に入った人も多かったようだが、スキ−をやるのら”整形”へと、彼は入局した。
”いよいよ卒業ということで、うれしいような、さびしいような”感じをもった後藤さんは、”存在感”を皆にもたせた。
”大きなナベで食事をつくった思い出”のある大鰐では、皆から、女の人には、きれいな毛布ということで、”後藤さん毛布”がささげられたという。もっともその前に”五十嵐のタエコ毛布”があった話は、大鰐で寝泊まりした人でなければわからないお話であろう。
年々新人が入り、次々と卒業していく。
どこまでつづく、このスプ−ルは。 (59.9.20.)
弘前だより(23)
去る昭和60年5月11日川丁で開かれた新歓コンパの席上、スキ−部長を眼科の松山秀一教授にお願いすることで、バトンタッチをいたしました。
思えば長いようで短かったスキ−部長を第三走者にバトンを渡したことで、ほっとしているところです。
弘大医学部スキ−部が、昭和21年に誕生して39年、SPURが34年に創刊号を出してから今度が24号、照井先生のあとをついで2番目の部長になって15年、あっという間であった。
「部長の役目はカメラマン」といわれた時代があって、東医体についていって撮った写真のアルバムが衛生学教室に置いてあるが、白黒のものからカラ−になって、もう12冊になった。
先日のコンパのとき、ゆかりちゃんが「直亮先生の来ない東医体なんて」と言ってくれたが、お陰様で色々のスキ−場を楽しませて戴いた。
昭和47年第11回の赤倉から、八方尾根、野沢、栂池、猪苗代、富良野、網張、野沢、赤倉、八方尾根、五日町、田沢湖とそして蔵王と、知らない間によくあるいたものだ。
最近ではプロのカメラマンがついてきて、立派なパネルを作ってくれるので、私のはいる余地はないが、それでも数々のスナップショットに、青春の記録は残されている。先日も昔の写真を借りに来たOBがいた。第3回の東医体が弘前で開かれ、優勝したときのアルバムもあるから、弘前に来たときでも、寄ってくれたまえ。
実はその東医体を弘前でやることが決まっているが、私はその時には現役でないので、早めに松山君に部長をやってもらうことにしたのだ。
今年の大鰐の北医体はそのリハ−サルのようなものだったが、何かと先輩によろしくということになるので、「若さを保つための税金」を今からお願いしておきます。
人生には何時何処で何がおこるかわからない。
前号でヨ−ロッパから絵はがきを送ってくれた本山君が山で事故に会った話など聞くと、つくづくそう思うのである。
幸いに怪我もよくなってリハビリをやっているとのこと、中村幸夫君ら同級生のはげましがあってのことか。
「8月7日予定のコ−スを踏破し、帰宅すべく下山中、通常の登山道となっている針の木雪渓の上端部に足を踏み入れて数歩あるいていた所で突然足下から雪渓が崩壊しました。垂直に落下した距離はせいぜい3,4米と思われますが、落下と同時に崩壊した雪塊の下敷きになってしまいました。下半身は渓流に浸っていましたが、上半身が岩の上に丁度乗っていたようです。幸いにも意識を失わず口と鼻の周囲に若干の空間があったことから助けを求める為に声を出せたこと、又近くに登山者がいたこと、人手のある前日宿泊した山小屋が比較的近くにあったことなどから、6時30分少し前に事故にあい、9時少し前に雪塊の中から堀り出されました。その後ヘリコプタ−で大町市内の病院に運ばれ、骨盤骨折を負っていることが判明しました」
「社会復帰出来るまでにはまだ時間がかかるようです。皆様から戴いたお手紙を毎日のように見ながら、くじけそうになる気持を自ら励ましています。時々ラジオで津軽山唄や、津軽あいや節、津軽じょんから節等を聞くと、思わず目頭が熱くなって来ます。心あたたまるご好意本当に有り難うございます。皆様のご好意に応えるためにも、この苦しみを乗り切って行こうと思います」頑張ってくれたまえ。
大鰐ヒュッテかわらず。今はもう二世三世の時代になった。
照井先生お元気。保健所長退職後、中国旅行をされた。
小生明けて3月満期定年。追コンを盛大にやってくれる話もないわけではないが、あと弘前にいることだし、スキ−場やゴルフ場で顔を会わすほうが楽しいね。 (60.11.20.)
お祝いの言葉(24)
Ladies and gentlemen コンバンワ
チャ−ルス皇太子殿下のようにユ−モアのある挨拶をしたいと思いますが、ダイアナ妃より美しい新婦を前にしてできますかどうか、またはじめて名誉教授などと紹介されまして、いささか緊張しております。
考えてみますと私が青森に参りましたのは昭和29年ですから、だいぶ時がたったわけで、丁度今NHKのいのちというドラマに弘前医科大学が登場してまいりましたが、その時分でありました。その時今日の新郎のお父上の川上与一郎さんが弘前医科大学をでられ、今日のご出席の方々の顔ぶれを拝見するとその当時一緒にご苦労になった方々とおみうけしますが、ほんとうに今日はおめでとうございます。
大先輩の佐藤義臣先生や臼淵勇先生をさしおいて私にご指名があったわけは、先ほどお仲人の篠崎先生のお話があったように、私が弘大医学部のスキ−部の部長をやっていたからではないかと思います。そんなことでその中で知りました新郎の弦一郎君の、弦ちゃんとよばせてもらいなすが、いくつかのエピソ−ドをお話してお祝いの言葉にかえさせて戴きたいと思います。
スキ−部にはスプ−ルというかれこれ20年以上もつづいた小冊子がありますが、弦ちゃんが入ってきたときに、小学生のとき雲谷のスキ−場の一番てっぺんにリフトに登ったときの印象がきらきらとすばらしかったと書いてありました。これがあって医学部へ入ったあとスキ−部に入ることになったのでしょう。
その後色々のことが書かれていました。
弦ちゃんが専門の2年のとき主将になりましたとき次のようなことを書いていました。
これは主将としてもっともな言葉と思いますが、つぎの言葉が気に入りました。
「僕は各人の個性を尊重したい。ここぞという時に、僕はそれぞれ持っている力を十分引き出してあげたい」と。
十分やってくれというなら、主将として都合のよい話ですが、引き出してあげたいというところが気に入りました。結婚されたあとも、このような気持の持ち主であることは、大変大事なことでしょう。
スプ−ルにはかずかずの名文句がありますが、その中で私の好きな言葉があります。これはいま結婚されて整形をやっている田沢真理ちゃんの残した言葉です。
「学生時代にスキ−をやったことは私にとって一生の財産でした」という言葉です。
弦ちゃんは、卒業の追コンのときそれを受けて、わたしはその利子でくっていこう、といって皆を笑わせました。
僕はそれに加えて5人の得難い存在がある。多くの友人を得たということですが、彼は「存在」と書いていました。
お聞きするところによると、新婦の父上は銀行方面のお仕事をやっておられるとか、まさにうってつけのお話ではないかと思い紹介する次第です。
このように弦一郎君はいろいろのとてもおおきな財産をもっておられると思います。
今日お集まりの皆様がたのお力添えによってこれから世のなかのために生かされていくものだと思います。そして親孝行ができるものだと思います。
今日は本当におめでとうございました。 (61.,5.18.)
弘前だより(25)
雪が消え、夏が近づいてきたとき、スプ−ルの原稿に何かと、専2の松田千絵子さんがいってきた。
ついこの間久しぶりに岩木山の登ってスキ−を楽しんできたと思っていたが、昨日はその岩木山の麓のゴルフ場でシニヤのコンペに出ていた。いつも山を見ながら。
山を見ながらというのには訳がある。
津軽CCのコ−スはどのコ−スでも山がみえるのが特徴だが、これからパタ−をするときはいつも山をみなければいけないのだ。それはどのグリ−ンも山のほうから柴は順目で、みた目では登っているようにみえても、カップの上からは玉はよくはしるのだ。山に向かって打つときは。柴は逆目で玉はのびない。だからこれからカップをねらうときは自分の位置が山に対してどうなっているか必ず山をみなければならない。このコ−スで初めてやる人はグリ−ンでスコアをくずすのだ。これだけ知っているだけで、四や五は違う。
その岩木山の頂上に昨日まで見えていた雪が今日は消えたとキャデイがふとつぶやいた。弘前で気温が34度だったという7月16日のことである。
山をみていると今年の冬久しぶりで岩木山に登りスキ−を楽しんだことを思い出す。
一度目は12月雪上車でスカイラインのコ−スを八合目まで登り、その同じコ−スを下までおりた。雪がごつごつして面白くなかった。真冬の2月にもう一度登り林間を嶽までおりた。雪上車のエンジンの音は煩く、振動もあって約三十分ののぼりは快適とはいえない。下りもどうっていうことはなかった。そして春スキ−を期待した。
百沢のスキ−場の上にでるところは、かろうじて雪がつながっていた程度であった。
翌日も独りでいった家内の話によると、前日と違ってもう雪はきれていたとか。今年は雪が少なく、弥生と長平へのコ−スは来年のおあずけになった。
大鰐の雨池のコ−スもよくなった。あの急な土手がすこし平になり、その下にずうっと、高等学校のところまでコ−スができた。そしてリフトが上へ一つできた。このコ−スをやると第一第二と下からのリフトと券三枚はちょっとという気がしないわけではないが、安比ほどではないにしても近いところに手軽なコ−スができたことは嬉しいことだ。 (62.10.1.)
弘前だより(26)
早いものですね。もう一年たってしまいました。
とくに停年のあとの人生は、早く時がたつと思うのはよいことかもしれませんがね。
晴耕雨読の生活といったところでしょうか。家から五分と近い東北女子大学へいって、健康科学、衛生学などを講義し、医学部の六階の小さな部屋にいったり、保健婦や助産婦や看護婦の講義をしたり、そのすきに天気がよければ、大鰐へ車をとばして、家内とスキ−をといったところです。
今年の冬のシ−ズンは雨池のコ−スをよくすべりました。高等学校の前の駐車場はすいていて、いついっても入れるし、時にはリフト券を一枚サ−ビスしてくれる。
雪の消えた今日この頃はゴルフへといったところです。
近くのゴルフの練習場(きものセンタ−)に朝行くと千円でいくらでも練習できるというわけです。
朝五時からやっていますから、早起きしてもっぱら朝に一汗というわけです。すきな教授や開業の先生もきていて、八時ごろ早々と帰ってゆくのを見送って、それからまたすこしできるのも、自由になったおかげでしょうか。
前に、忘れた頃に何かが起こるものだ、と書いたことがありました。
(あってはならぬことが起きた)
これが今年の流行語です。
弘前大学病院で食中毒がおきた。これです。そして、TV、新聞に登場した舟生病院長の言葉が私には印象的でした。
予防が第一なのでしょうが、それもままならない世の中で、大学病院をはしりとして、ここ二、三週間に次々と食中毒の事件が報道されました。
昔、講義の中で、気温と湿度が高まるつゆ時分に、その変化をながねて(食中毒警報)がだせるのでないかと述べたことを思い出しました。
もっとも今度の事件は届け出が遅れたことが問題になったようで、今朝の新聞によると県は(厳重注意)したとでていました。
管理者はつらいものですね。
弘前大学医学部(吉田豊医学部長)となってからしばらくたちました。
良いニュ−スがでることをOBとして祈っていますが、皆さんも同じ気持ちでしょう。
品川教授が停年を前に県病の病院長へ、そして山口教授は停年退官。
山口教授がこられた最初の教授会の時(キザなようですが、弘前に骨をうずめる気持である)といわれたのが、ついこの前のように思われます。国際学会などで当分いそがしいとのこと。
さて来年は誰かと。弘前も初代はほぼおわり、二世から三世の時代になりました。(63.7.13.)
弘前だより(27)
弘前だよりを書きはじめて、今回で27回になった。
昭和34年のSPUR創刊号に「山は呼んでいる」を書いて以来、アメリカへ一年いっていた時の6号を除いての回数であるが、よくもつづいたものだと思う。スキ−部の記録と共に弘前のつまらない歩みがわかるように書いたつもりである。
鵬桜会報にも「衛生学教室のアルバムから」というのを連載しているが、これも先日「その二十五」の原稿を送ったばかりである。写真と違って情報量が少ないのは致しかたないが、今回も近頃の弘前の話題を書いてみよう。
と思っても、何事もないまま、あっと云う間に一年がたってしまった。
昨年の冬はことにほか雪が少なく、一段と整備された大鰐スキ−場であまり楽しむこともなく春がきてしまった。大鰐のヒュッテはそのままである。
大鰐が雪が少なかったので、百沢へはよく行った。岩木山の麓にきれいに輝く光にさそわれてナイタ−にも行った。
昔のリフトが二人乗りになってすこしは早くなり、そのうえ前の終点の上にもう一つリフトができた。6回券で1200円。でも雪不足であっという間に春になり、岩木山の春スキ−を楽しもうと思っている内に雪が消えてしまった。
おかげでというか、ゴルフ場ははやくオ−プンした。
岩木山の鰺か沢よりの長平(ながだい)にスキ−場とゴルフ場の計画があって、あと四、五年たつと様子がかわるだろう。
弘前大学医学部の地下一階地上九階の新病棟が南塘グランドと旧第一病棟の間にそびえ建って姿を現した。堤から岩木山をバックに病院を見渡すと一段と立派な建物が中央にそびえて建った。
そして面白いことに、弘前の市街を歩いていると、街筋の間にその九階の新病棟の姿がみえるのである。弘前の街筋がまっすぐでないためにそうなのか、思いがけず高い建物がみえるのが今度出来た新病棟であることを発見した。
もう一つ同じように街なみの向こうにみえる建物が出来た。それはこの九月開業といわれている新しいホテルである。弘前駅のすぐ横の東急系のシテイ弘前ホテルである。こけら落としの学会は消化器の学会とか。
学会といえば先日ワシントンでの第2回国際予防心臓病学会へ出席するためにちょっとアメリカへいってきた。途中よったサンフランシスコとワシントンは3年ぶりであり、そして帰りによったニュ−ヨ−クは24年ぶりだった。
昔のまま残っているもの、そしてすっかり変わってしまったもの、世界のどこも変わらないようにみえても、20年もたつと変わるものである。
弘前も変わらないようにみえても、しらない間に変わっている。
弘前への交通体系はすっかり変わってしまった。道路はすべて舗装され、高速は車族にはもったいない位すいていて快適である。高速バスは盛岡へだけでなく、仙台・東京と結構こんでいる。青森空港にはジェットが入り、時間的には世界にも東京にも近くなった。
弘前と青森の間には「快速」という電車もはしるようになったが、「普通」にのると時間は30年前と同じで、川部で待たされることは変わっていない。
先日の野球のオ−ルスタ−をTVで楽しもうと思っている人が、RABとATVでは放映されないということを知って嘆いている人の記事がでていた。まだ民放は二局である。でも弘前でも衛星放送がみられるので、世界のニュ−スは同時に入り、オ−ストラリヤのキャンベラでのW杯の回転・大回転のスキ−大会の実況をこの夏にやっていた。あちらでは冬なのである。そしてスキ−なのである。
恋人は遠くにありて思うもの、冬にヨットを思い、夏にスキ−を思う、と昔書いたことがあったが、いまならその気になれば明日でも弘前からどこへでも行けるのである。
お盆の入りの十三日、津軽CCでゴルフをやって帰って来たら、甲子園で弘前工業が「二十年ぶりに」緒戦に勝っていた。ようやく二十年の束縛がとれたようである。(1.8.13.)
弘前だより(28)
今年のスキ−場の話題は「ゴンドラ」がついたことだろう。
大鰐と鰺ヶ沢に。
大鰐は国体を迎えることもあって、だいぶ整備され、色々な設備ができた。
スパリゾ−ト温泉とかいって、新しいリゾ−ト感覚のレジャ−施設ができ、入場料1800円で、1日あそべるようになっている。
「錦水」という名の高級旅館もでき、一泊数万円を覚悟すれば、料理も良いとか。
第三リフトの終点の頂上にできた「ロイヤル」ホテルは、スキ−のパックが二日有効のリフト券もついており格安なので、県外の人には好評のようである。
夏にはゴルフ場になり、スキ−場を横切って舗装されたホテルのゴルフハウスまでの近道ができたので、昔のように山の裏道を登らないですみ、弘前からは一時間はかからないようになった。
青森空港からヘリポ−トも用意されている。
しかしビジタ−はとらず、玄関には上着着用と書いてあり「ロイヤル」としての格を維持しているとか。
もっとも町営の大鰐山荘の温泉は百円で、きれいなお湯でスキ−の疲れをいやしてくれるし、大学のヒュッテは昔のまま。
五十嵐さんの店もそのままで、ラ−メンをはこんでくれるおばさん達も元気だ。
「OWANI」といって、名前だけは、「大鰐国際スキ−場」「あじゃら高原スキ−場」となり、リフトも七つできた。
雨池ペアリフト(522M)・第二(865M)・四人乗り高速のスカイフォア−(864M)が大学ヒュッテのある方に、第三ペア−(506M)はパラダイスに、第二スキ−場といっていた方には、第四(518M)・第五(938M)・第六(482M)・第七(733M)とあり、それに六人乗りゴンドラ(2222M)が新しくできたのである。七分で一気にあじゃら山の頂上(標高709M)へ運んでくれる。
頂上からリフト一つ分だけは上級者向きのコ−スを楽しむことができるが、昔歩いた峰づたいの道を第三リフトの頂上にまで下っていけるコ−スもある。最後のところの上がりにはホテルのサ−ビスの上がりのロ−プがあった。
リフト代は一回250円、一日3000円、ゴンドラ一回800円、五回3500円である。共通一日券は4200円である。
大鰐の駐車料金は今年からなくなった。
鰺か沢の長平のスキ−場はできるまであと数年はかかると思っていたら、あっという間に(AJIGASAWA)スキ−場が誕生した。
環境アセスメントとかいう間もなく、私の関係していた「名水」を一つとりさげ、岩木山の山頂駅は完全に頂上へはいかないが、全長2967M、上まで十分で運んでくれる「ゴンドラ」ができた。
ここは六人乗りゴンドラだけだが、片道800円、一日券3800円だが、午前1800円、午後2000円の切符もある。
西武系なので宣伝もおてのもの、青森空港や高速道路からの案内の掲示板が立った。
弘前からだと浜の町からすこしいったところから岩木山に向かって弥生の方へぬける道がよさそうだ。弘前からだと一時間でいける。
駐車場は一つしかなく、料金300円を用意しなければならない。
上級者にはものたりない中・初級者向けのコ−スだが、すいすいと私のような者でも平日で十回は乗れて、元をとったと満足するといったコ−スである。
食料は地元調達だが、食堂のスタイルは全国共通だ。
民宿がいくつかできた。
いままで安比へ足をのばしていた人達も一度はというわけで、若い人達が大勢きていた。弘前や空港から定期のバスもあるのだが、あまり乗っていないところからみると、殆どが車でくるようになったようで、これも時代の変化か。
おまけに今年も昨年と同じ雪不足であったのに、ここ長平は結構早くからおそくまですべれたようで、随分かせいだのではないのか。
大鰐では折角の国体も雪不足で開催が危ぶまれたが、どうにか雪を運んできりぬけた。だがTVでご覧になった方もいると思うが、あの雨池のコ−スが茶色になっていた。
こんなコ−スで滑ったのははじめてとの選手のインタ−ビユウの声がTVに流れたが、国体を最後に、その他の競技は中止になり、スキ−のシ−ズンは終わってしまった。
さくらも早く咲いて、弘前のさくら祭りの会期を4月19日からと早く始めたが、ゴ−ルデンウイ−ク(GW)はすっかり葉桜になってしまて、一ヶ月も早く季節が進んでいるようである。
このスプ−ルの原稿も今年は少し早めにお願いしますということであった。
来週5月]14日には例の川丁で新歓コンパが開かれる。(2.5.10.)
弘前だより(29)
いや− ふきましたね
平成3年9月28日の朝5時をすこし過ぎた頃でしょうか。
つもの様に早朝ゴルフの練習に行こうと思って玄関の扉を開けようと思ったらもう凄い風圧でした。なま暖かい風が吹きまくり始めました。 前日九州地方を通りすぎた台風十九号の進路や大きさが昭和29年の洞爺丸台風の時と同じだから注意するようにとの報道はあったものの、いつものようにとたかをくくっていたのですね。
段々風は強くなり、屋根はぱたぱたしはじめ、庭の木は思いきり搖れていました。
それから一時間、台風はあっと云う間に通りすぎていきました。
すぐそばの家の屋根はそっくりもっていかれ、停電になりました。
「台風一過 百五十億」とはじめ報道されましたが、被害額は三百億になり、五百億になり、山のリンゴはすっかり落ちてしまいました。
丁度28日の夜は久しぶりで弘前に来られた高橋英次夫妻をかこんで古い衛生学教室の人達で会食する予定でした。
西堀の近くの野々庵で、いつまでたっても電気は付かず、蝋燭の火のもとで昔話の花がさきました。
話題は29年の洞爺丸の時の台風のことでした。
あの時は公園の大木がおれて、今度はもっとひどいらしいですよといった話がでました。
私の経験から外国ではデイナ−の時は電気を消して蝋燭を灯して食事をするもんだという話をしました。
弘前の六万世帯の停電がなおったのは県下では遅く、私の住んでいる城南は一番おそく10月に入って一日の夜遅くだったそうです。その間電化生活は全くストップしました。携帯ラジオと懐中電灯だけが頼りでした。冬だったら凍えてしまう事でしょう。
「だったそうです」と書いたのは台風が通りすぎて快晴になった青森空港から飛び立って一週間神戸と伊豆下田で開かれたWHO関連の国際学会と会議に出張していたからです。
話題は栄養と健康と遺伝との関連に関するシンポジウム、活力ある未来を求めてからだと心の栄養WHOフォ−ラム91、そしてWHO-CARDIACスタデイのまとめの会議でした。
久しぶりで朝から晩まで全て英語の会に出で、頭脳の活性化には役にたったようです。
リンゴが落ちて、食べるリンゴが少なくなって、収入も少なくなって、それがきいて高血圧にまたなるのではないか、これが私のジョ−クでした。
りんごが何故、高血圧にきくのか、それは最近第一出版からだしました「りんごと健康」をお読み下さい。
食塩については近く「食塩と健康」(第一出版)が出る予定です。
今年グランド・シニヤ−になりました。グランド・シニヤ−になってよいことはゴルフのプレ−代がすこし安くなったこと。ただしスキ−のリフト代が安くならないのはどうしたものでしょう。
塩少々、りんごは毎日一個、たばこはやめて、運動して、あらゆる事に興味をもち、社会奉仕を、これが最近の私のライフ・スタイルです。(3.10.7.)
弘前だより(30)
台風19号のことを書いてから早一年たってしまいました。
洞爺丸台風が五十年に一回、19号台風が百年に一回の台風といわれていますが、大鰐あじゃら山のゴルフ場でみた木々が途中から折れてクシのようにならんでいた風景は忘れられません。
あのあと大鰐のヒュッテはどうなっているかと気にしていましたが、冬にスキ−に行ったときみたら、屋根はとんだままになっていて応急の修理のままでした。おまけに「弘前大学大鰐ヒュッテ」の看板がはずれたままになっていて、これであのヒュッテも終わりかなと一瞬思いました。
全学の台風の被害の修理が沢山あって、そのうえトタン材料・人手の不足ときてはいつになったら直るのでしょう。
もっともわが家の屋根の被害、といってもほんの少しですみましたが、幸い「保険」で見積もってくれたので、20年もたったのでこの際屋根を全面改修し、ついでにTVのアンテナも新しくしてと考えましたが、それがすっかり直ったのも冬をこしてからのついこの間でした。
大鰐のヒュッテの前にある五十嵐さんの小屋は無事でした。
いつだったかOBの加地浩君が弘前にきたとき、「なつかしいな!」といっていたところです。
その加地君が九州にある産業医大の教授になってその弟の加地隆君が解剖学の教授として停年退官された河西達夫教授の後任として旭川からこられたのですから人の縁は不思議なものです。
加地隆教授は北大でならし、旭川医大のスキ−部を育てた人です。早速スキ−部のコンパに顔をだし、今度は弘前の応援をしなければならず、どうしたものかな、といっていました。
五十嵐さんの小屋でコ−ヒ−を飲んでいたらふと壁にかかっていた「句」が目にとまりました。
「まるめろの 咲きて 昔のままの家」(手古奈)
とありました。大鰐の増田手古奈先生の作でしょう。
それをみてふと一句うかびました。
「ラ−メンも 人も 昔のままの小屋」
中華をはこんでくれる叔母さん達はみな元気で昔のまま。
いま東京にいってしまった子供達のことを覚えていて話かけてくれます。きっと皆さんのことも覚えていてくれるのではないでしょうか。
今朝の新聞(4.6.16)に「玉井謙一先生」が亡くなられた記事がのっていました。今夜はお通夜です。82歳とありました。
教育学部の体育の先生で昔スキ−部の顧問をして下さった先生でしたから覚えている方もあるでしょう。
マ−ゲンの手術のあとリハビリもうまくいって私と同じ東北女子大学でつい昨年まで体育の教授で、スキ−もやっておられました。
「六十は年毎、七十は月毎、八十は日毎、九十は刻々に老いる」という言葉があるそうですが、それでもまだ元気な先輩達がいるのでまけないように頑張らなくてはと思っています。
冬はまだスキ−を滑っていますし、いま毎朝ゴルフの練習をしています。
先日津軽CCで行われた青森県のゴルフ大会(各ゴルフ場の役員の親善大会で17回になる)で久しぶりにパ−プレイ(ハンデイは29ですが)で上がってきたら、70歳以上のグランドシニヤ−の部で「優勝」していました。
照井先生は益々お元気。
タバコ・お酒・マ−ジャン・テニス・スキ−と羨ましい限りです。多分遺伝子が恵まれておられるのでしょう。
近く医学部50周年の記念日を迎えるそうですが、その中にスキ−部の記録も残して置きたいものだと思っています。
SPUR18号に書いたようにカップや賞状は学務を通じて医学部会館へ渡してありますが、私の手元に「SPUR」1号から30号までのバックナンバ−がそろっています。
「部長の役目はカメラマン」といわれて作ったアルバムも昭和46年第13回の八方尾根から、赤倉、野沢、栂池、猪苗代、富良野、網張、野沢、赤倉、八方尾根、五日町、田沢湖と12冊あります。また昭和37年に大鰐で開かれた第3回の東医体で優勝したときの記録写真アルバムも含めて資料室へ寄贈したいと思っていますが。(4.6.21.)
弘前だより(31)
七十二年も生きていると色々のことを経験しますね。
昨年末、久ぶりで入院、近代医療の恩恵を受けました。
話は家内が良く切れる包丁を買ってきた来たことから始まったようです。
いつも中三の鰻を食べにいったときに「かぶとに」を旨そうに見ていた私をみていて、丁度新しい鯛が市場にあったので今晩はご馳走をと料理がすんだところに女子大の講義を終えて私が帰えってきたというわけです。
小さいときから魚の食べ方の下手な私。またスキ−や車の運転も大丈夫と思ってつい「えい−」とやってしまう私。美味しく食べていた魚の肉の塊をそのまま飲めるかなと呑込んでしまったことから「異常感」を喉の奥に自覚し始めました。それもかなり奥の方に。
金曜日、午後六時すぎ。
近くで耳鼻科を開業している吉田君をはじめスキ−部に関係した諸君の顔が浮かびました。だが時間が悪い。
結局大学病院の救急外来で診察を受けることになりました。
レントゲン技師が呼び戻され、写真をとっても写らず、かなり食道の奥のほうであることがあることが見られたそうですが、食事のあとで嘔吐反応があり、簡単には摘出できず、全麻でやりましょうということになりました。
運がよかったのでしょう。丁度外来におられた今度朴沢教授の後任の教授に昇任された新川秀一助教授の手でやって戴くことができました。
麻酔医も二人も駆けつけてくれ、久しぶりに手術室に入り、全麻は初めての経験でした。
ちょっと外来へ、がそのまま入院。そして全麻のもとの手術ですから、ついて来た家内はめんくらったと思います。丁度「麻酔」が新聞に連載されていた時ですから。手術室に入っている間に東京にいる子供達に電話をしたといっていました。
麻酔なく取ろうとするときの苦しさに比べれば、私の麻酔は本当に「すとん!」とおちたようでした。
時間は30分とか、だが記憶としてはほんの数分。
かなり大きなものを一つとり、よく調べたらもう一つあったそうです。よく調べてくれたと思います。
ストレッチャ−の上で廊下を運ばれる間、蛍光燈が次々と通り過ぎてゆき、足元がス−と寒かったことだけがおぼろげな記憶の中にありました。
感染防止などの処置、補液などなど、入れ替わり立ち代わり現れる若い医師や看護婦達の手によって次々と処置されました。
幸いなことに痛みはなく翌日37度ちょっとに体温が上がった位いですみました。
一週間は極めて規則正しい生活でした。
この間ゾンデによる経管栄養。
なににもまして私にとって印象的であったことは、経管栄養の経験でした。
人の栄養はどうなっているのだろう。体液は、ミネラルはと考える機会が与えられました。
口・舌・鼻で味や臭いを感じることの無いままに、体に必要なもが次々と補給されることでした。
それは先日出した「食塩と健康」(第一出版)のなかの「塩味の好み」についてつみのこした問題に関係することだったからで、今度の入院は私にとって貴重な経験でした。
そして最終のレントゲン検査がすんで、ゾンデが抜かれ、最初に飲んだ水の冷たく旨かったこと。
そして「老人保健法による医療」のためか支払いは少額でした。
本当に皆さんにお世話になりました。
お役に立てて良かったといってくれた方もおりました。
有難いものです。
ところが今度は「腰痛」がおこりました。
家でコンピュ−タ−を精出してやったのが悪かったのか、長距離ドライブが悪かったのか、今年の冬のスキ−は子供のおさがりの新しい板や靴でうまく滑れたのに、「腰痛」が始まりました。
年なのかな。
悪い病気でなければよいがなと思いながら、麻酔科のペイン・クリニク、そして放射線科による「MRI」の診断、整形外科の診断とお世話になりました。
「椎間板ヘルニヤ」の所見があるようでということになりました。 まだ手術にはいたっていません。「腰痛体操」を勉強し、といって運動は幾つになってもそれなりにやらなければと思いながら暮らしている今日このごろです。
皆さんお元気で。(5.5.21.)
弘前だより(32)
弘前大学医学部をを停年退官してはや九年目になりました。
東北女子大学教授として、「衛生学」のほか「健康科学」などを担当しておりましたが、この平成6年3月31日付けで退職しました。もう73歳になったので後進に道をゆずるのが理由で、健康上の問題ではなく元気です。
従って職業欄は「無職」になり、「年金」が基本で生活しています。でも「リフト」代、「ゴルフ」代ぐらいはかせがなくてはと思うこともありますが、「社会奉仕」が第一と心掛けています。
「衛生の旅 Part5」に書いた「一日一考」をワ−プロに打ち込んでいたのですが、最近は「一日一解」を目標にしています。
どういうことかというと、「積み残してきたこと」「その本当の意味が分らないこと」「言葉の由来・その意味」など、一日に一つずつでも明らかにしたいということです。
現役時代は先へ先へと世界の先端を追いかけてきたつもりなので、いろいろ積み残してきたし、いま思うと何にも知らなかったことばかりです。
先日第一出版から「りんごと健康」「食塩と健康」を出版するのでまとめてみたとき、「医学思想の源流」をたどることの必要性を感じたこともありました。
またいま「青森県生き生き健康県民運動」の推進委員長をやっていることもあって、一般の方々に健康のことを本質を間違わないように分かって戴くために、自分もよく理解していなければならないと思ったこともありました。
そのような意味から先日津軽書房から「解説・現代健康句」という小冊子を刊行しました。医学の専門家や学生諸君にも是非読んで戴きたいものと思っています。
弘前大学医学部も昭和19年青森医学専門学校創立から数えて50年を迎え、この6月25日記念式典・懇親会が盛大に行われました。それをすませてからこのスプ−ルの原稿を書こうと思っていたので締め切りを延ばしてもらいました。
青森市の市民文化センタ−内に建立された「記念碑」を先日みてきました。場所は棟方志功館・NHK青森の建物のある筋向かいの市民センタ−の横を回ったところです。
二年位前でしたか記念事業会の顧問として出席したとき、医学部発祥の歴史的な場所として「ここに医専ありき」という「証」がひつようではないでしょうかとの発言が実ったことは「ご同慶」の至りと思います。
式典・懇親会では槇哲夫・松永藤雄(車椅子でしたが)・片桐主一・東野修治先生ら遠路参加され盛大で盛り上がった会になったと思います。
中でも「電通」による「マルチ映像」による「みちのくのヒポクラテスたち」(弘前大学医学部50年の歩み)のワイドのスクリ−ンに写しだされた映像はさすが専門家また予算を沢山かけた(そうですが)一瞬の20分は夢のごとく過ぎ去りました。
「久しぶりに若い時の姿を見せて戴きまして有り難うございました。皆さんも同じ思いであったでしょう。50年記念おめでとうございました。さらなる百年にむけての発展を祈ります」は突然の指名のスピ−チでのべたことです。
私の撮った写真がかなりの割合に採用されておりましたが、スキ−などのスポ−ツの映像はなく、もっぱら戦後から現在までの「地域医療」とのかかわりが編集者のテ−マであったようにみられました。
ところでこの 3月4月に停年になられた方新任された方移動された方多く、医学部人事は次なる発展へ変わりました。
細菌学福士主計教授のあと中根明夫教授(北大農)・薬理学藤田昴教授のあと元村成(しげる)教授(東北大医)・脳神経外科岩淵隆教授のあと鈴木重晴助教授昇任、歯科口腔外科鈴木貢教授のあと木村博人助教授昇任、形成外科菅原光雄教授のあと澤田幸正助教授昇任、(以上停年退官)、空席だった第一生理学には泉井亮(わくい・まこと)教授(東北大医)が新任されました。第三内科の武部和夫教授が青森市民病院に転出されましたので、このスプ−ルが出るころには後任教授がきまっていることでしょう。
もう前のことになりましたが、公衆衛生学の臼谷三郎教授のあとはスキ−部先輩の三田禮造教授になりました。第一病理学の永井一徳教授のあとは八木橋操六講師昇任・法医学村上利教授のあとは池田典昭(のりあき)教授(山形大医)となったのですから医学部の陣容は最近全く変わったことがおわかりでしょう。
「時すぎて 人あたらしく また次の日を迎えん」
お元気で。(6.6.28.)
弘前だより(33)
まず弘前から悲しい便りをお届けしなければなりません。
わがスキ−部の育ての親「照井精任先生」が病気療養中のところ去る平成7年4月26日午前8時45分永眠されました。行年85歳でした。
もう十年も前になるでしょうか、胃がんの手術をされたとかでしたが、スプ−ル31号に「照井先生は益々お元気。タバコ・お酒・マ−ジャン・テニス・スキ−と羨ましい限りです。多分遺伝子が恵まれておられるのでしょう」と書いたのでしたが、年齢には勝てないものか、お亡くなりになりました。
もれ聞くところによると、ちょっと腰がいたくなったのが始まりで、点滴で糖尿病になり、肺に所見が見つかって、二内に入院、現在はやりの「多発がん・多重がん」でしょか、奥さまの話では「お酒だけで、タンパク質が足りなかった」のか、残念ながら亡くなられました。
火葬・通夜でお送りしましたが、喪主の梓さんが「最後までマ−ジャンにお付き合い戴いた皆さんに感謝します」との言葉が印象的でした。
四十年近く前弘前にきて「コロセン・クラブ」に入れて戴いて以来のお付き合いでした。
お墓は自宅のすぐ上の最勝院で八甲田山がみえる一番眺めの良いところを「買っておいたよ」と生前言っておられたので、そこに納骨されることになるのでしょう。
(銅屋町70:照井照子様はちょっと足が不自由でしたがお元気でした)
もう一つの話題は羨ましくも嬉しい話です。
丹内正一先生、先生もスキ−部育ての親の一人。現在81歳。
「多分、日本最高齢の現役スキ−指導員では?」と大きく地元新聞に写真入りで報道された先生のニュ−スです。
今シ−ズン十六年ぶりに日本で開かれた「第15回インタ−スキ−野沢大会」に出場し、世界中のスキ−指導者らが注目する中、「華麗な滑降」を披露されたとのことでした。
「指導した人が上手になるのが、楽しくて仕方がない。スキ−は私の青春です」と朝日(7.4.18.)にありました。
私、私も元気です。
先日青森市で小野寺康午教授が会長の「日循協」総会で「日循協30年前夜の人々」という題で第30回記念特別講演をすませほっとしているところです。
15年前の総会を私が弘前でやったのですが、月日のたつのは早いですね。
この6月末にはむつ市で開催される第36回青森県精神保健大会で公開特別講演で「心と体の健康句」という題で話をする予定になっています。
日本医事新報の緑蔭随筆に「夏もスパイク・冬もスパイク」という題で原稿を送りました。
夏がゴルフでスパイク・シュ−ズ、冬もスキ−を楽しむために朝の歩きも欠かせませんが、今年の冬ゴルフのスパイク・シュ−ズを履いて歩いたら頗る快適で、アイスバ−ンの歩道でも極めて安全であったというのが随筆のテ−マです。(7.6.10.)
弘前だより(34)
平成7年11月3日弘前大学医学部スキ−部部員一同から電報を戴いた。「秋の嵐」のはじまりであった。
「栄えある勳三等旭日中綬章、誠におめでとうございます。
お喜びもさぞやと拝察いたします。ますますご健康でご活躍 されますよう、 祈念いたします」
「お祝い」「デラックスおし花」の祝電であった。
お礼状を出さなかったから、ここにあらためて皆さんにお礼を申しあげたいと思う。スキ−部員の張君が朝刊をみて手配したとのことであった。
「嵐」の前ぶれはあった。
10月24日に閣議・御裁可を経て正式決定されるので、一番はじめは「代議士諸先生」からの祝電で、あいついで来た。
こんなに「祝電」の種類があるとは知らなかった。
テレビ(笑っていいとも)で「ご出演おめでとうございます」の電報と同じように。「うるし塗」また「メロデイ−の音」のでるものもあった。30分おきに電報をとどけてくれる人が気の毒な位であった。
お花もとどいた。東京の東野先生からも大きな花がとどいた。 八戸で開業している山田匡君から便りがあった。
「相変らず”政高学低”には不満なことですが、どうせ研究の中味などよく解らない人々のすることだからと自からを納得させておりますが」と書いてよこした。「それ頂きます」と返事した。
「めでたさも 中ぐらいなり 文化の日」
「文化の日 政高学低の 風が吹き」
もっとも生存者叙勳には「内示」があって、おまけに「受けるか受けないか」の判断をせまられる。
この辺の私の心境については「衛生の旅 Part 6」に書いたので、図書館でよんでくれたまえ。
「勳記」とか「勳章」も戴いてきた。照井先生のお葬式のときご霊前におかれているのを思いだした。
「叙勳産業」とでもいうものがあるのも今回の経験であった。 これらを全部書留めておくとよいのではないかとの思いもあるがひまがない。
それより「美原賞」とか「中冨賞」とか戴いた方がありがたかった。なにしろ「顕賞金」がついていたから。
女子大も退職し、年金生活に入った身として。
雑誌「臨床科学」(2月号)に「医療今昔物語:高血圧」を、「公衆衛生」(4月号)に「21世記へのメッセ−ジ:疫学による予防へ」を、「日本疫学会ニュ−スレタ−」に「今、疫学を思う」を書き、この7月弘前で開催される社会医学の会で「疫学事始」を講演する予定です。
弘前大学医学部のことを書かなくていけないと思うのだけれど、すっかり変ったとでも書いておこう。人も様子も。
大鰐スキ−場がすっかりよくなって、今年もおおいに楽しませてもらったが、これは「巨大投資」のおかげか。今「赤字」でどうなるかが最近新聞にでていた。(8.6.1.)
弘前だより(35)
久しぶりに「新歓コンパ」(平成9年5月23日)にでました。
例の百石町の「川丁」です。午後七時、会費四千円と案内にありました。
「川丁」も大きな方の部屋で。それだけ部員が増えたのでしようか。それに女子部員の増えたこと。
始めての人がいるのはいつものことですが、「私マネ−ジャ−としてスキ−部に入りました」という方がいるのは「時代」のしからしむることでしょうか。
松山秀一教授が都合で出られなかったので、代理ということで解剖の加地隆教授の挨拶で始まりました。
私は昔のことをすこししゃべりました。
「今度病院長になった橋本功君が学生時代に、木造の、しかし総檜造りの基礎校舎の二階にあった衛生学教室で、今秋田で開業している花田雅寧(まさやす)君、また亡くなった整形の松谷善吉君と(ガリをきって)(SPUR創刊号)を発行して今日に至ったこと。そのバック・ナンバ−が手元にあるが、どこに置いたらよいものかと考えていること。また(部長の役目はカメラマン)といって撮った(東医体のアルバム)をどうしたものか。遠藤正彦医学部長らが今度医学部校舎に(名誉教授応接室)をつくってくれたので、そこにとりあえず置いてありますが・・・」
そして今「大変贅沢なスキ−をやっています」と話を続けました。
何が「贅沢か?」というと・・
「一週間の内で 一日くらいは 天気もよく 雪質もよさそうな日があるときに、それも日曜・土曜はスキ−場も混んで ぶつけられてはたまらないから ウイ−クデエイに。 城南の家から 大鰐へ20分 鰺ヶ沢なら50分 全山貸し切りのような空いているスキ−場で 家内と一緒に(私が転んだら大変だとあとからついてきて)何回かすべって。時には頂上からノン・ストップで。 そして帰りにはおおわに山荘の温泉で 150円で 一風呂あびて・・・」
「とてもうまくすべっているところを家内がスナップしてくれました・・・という証拠写真があります」
「なんて贅沢なことだ」と思う 今日このごろです。
「多分公衆衛生の三田禮造君も 6階の教授室から 大鰐スキ−場を眺めて 今日は天気も良いのにと思っているのではないかと・・・私も衛生の教授室から眺めていたから・・・」としゃべったものでした。
その今学務主任の三田教授も会に出てきていて「内科の教授になった棟方昭博君も嶽の合宿に一緒に行ったはずだがな」といっていました。
「始めてスキ−をはく女子学生には(向井千秋さんを負かした先輩高橋英子さんがいる)こと。(弘前市医師会報、236)解剖の加地教授のお兄さんの加地浩産業医大教授らが大鰐で優勝した話もあること。全国で活躍している先輩の話などなど・・・」
そうそう学会で(第7回日本疫学会が東京で開かれた時)小川恵子さん(34回生)に会いました。(WHOでの仕事をやったあと現在東北大学公衆衛生にいるとか) また康井制洋君(22回生)がご夫婦で車で「彼らの原点」としての弘前にやってきた話。中村幸夫君(19回生)がコンピュ−タ−のことを弘前市医師会報(250,252)に書いていた話。私も「窓を開ければ アイコンが見えるよ」と医師会報(247)に書いたように、スキ−とゴルフのほかには毎日コンピュ−タ−に向かうことが多い話。弘前で生まれ育ちスキ−も大鰐でうまくなった次男の修(おさむ)が弘高から音楽に進んで、それも指揮者になって、青森・五所川原で12月に(第九)を指揮したとか、また今藤沢市に住んでいてインタ−ネットのホ−ムペ−ジを立ち上げたので閑のある方は見ていただきたいとか。いろんな話をかわしました。
(http://www.cityfujisawa.ne.jp/~maestro/)そして私のプロフイ−ルもでてくることなどなど。(9.6.5)