菅原和夫君とのこと

 

 中路君から退官記念誌に何か書いていただけないでしょうかと電話があったので、 2005年の初仕事としておぼろげな記憶から書いておこうと思う。

 菅原君と君(くん)付けすることをお許しいただきたいのだが、君(きみ)のことを思うと、弘前大学医学部に衛生学講座のほかに公衆衛生学講座が新設されることになって、教授として長崎大から赴任された中村正先生のことを、そして助教授として徳島大からの後に教授になった臼谷三郎先生のことを思わざるをえない。 昭和34年(1959年)のことである。

 昭和30年卒の石見貞次君が全国学生大会かで、どこかの教授が「ひろまえ大学」とか 言ったことにかみついたといったエピソ−ドが記憶にあるが、青森医専、医科大学、そして弘前大学医学部は世間ではそのように捉えられていたのであろう。

 函館育ちの君がどうして弘大を受験されたかは知らないが、当時弘前大学医学部教授会は野球が出来るくらい若い教授連が皆懸命にやっていた時代ではなかったか。その中に君は入学し昭和39年に卒業している。

 一方弘前大学でも全国なみに改革が叫ばれ、日々いそがしい日を送ったことが思いおこされるが、学長選挙とか、教授選考規定などを論議したこと、そして次期教授選考を1年前から始められるようにした記憶がある。

 多くの教授選に1票を投じた経験から、その1票の重みを実感したが、「院政をしく」といった問題も考えられた記憶がある。

 そんな時私は停年いっぱい勤めることができたが、次期教授選考が話題になってきた頃、「先生が推薦して下されば、一発で決まりますよ!」と耳元でささやかれたこともあった。

 だが後任の教授は教授会がお決めになることではないでしょうかが私の考え方であった。

 全国から優秀な諸君が推薦されてきたとことは嬉しかったし、そしてその中で君が選ばれたことも。

 だから君は君なりに数々業績を挙げ、停年を迎えられたものだと思う。

 盛大な退官記念会にこんな会はあとあまりないのではないでしょうかと会話を交わしたことが記憶がある。

 附けたりにひとつ。ギリシャのコス島に君の恋人がいるそうだ。

 「正直私には経験がないのですが、初恋の人に再会したときの心の高まりとはどういうものなのでしょう。」と「ハイジャイヤとの再会」に君は書いている。 私は1回であるが君は2度も訪れたという。

 南極昭和基地からの重い石を戴いたこととか、長崎を案内して戴いたこととか、色々思い出はあるものの、最近のこととしては中路教授就任記念会の時だったか、「今後は新しい疫学を!?」と祝辞を述べた言葉の本心を聞きたいものである。(20050125)

弘前大学医学部衛生学教室:菅原和夫教授退官記念業績集,18−19,平成17.3

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