「数(かず)を数(かぞ)えるの話題」から

 

 石原東京都知事が「フランス語では数(かず)の勘定ができず、国際語としては失格」とか言って告訴されたとか、「フランス語学習キッド」を贈られたとか、話題である。

 どんな時の発言かはつまびらかではないが、知事はフランス語があまり得意ではないことがわかった。

 フランス語を学ばなかった自分も分かる気もするが、決定権をもつ人が、そのような「思い込み」をもっているとしたら、世の中はどうなるのかな?とも思ったりするのである。

 昔「数(かず)」とか、「数学(すうがく)」のことを考えたこと、またノ−トに書き留めたことを思い出した。

 それは「18」を日本人は(ジュウハチ)というが、国によって違うのだ、ということであった。

 日本人は”十”(じゅう)”八”(はち)

 英語では”eighteen”で(8+10)

 ラテン語 (2足らず20)

 ニュ−ジ−ランドでは(11+7)

 スイスのある地方では(3+5+10)

 グリ−ンランドのある部落では(もう一つの足の3)だとあった。(両手の指の数 プラス もう一つの足の3)であろう。

 アラビヤ数字では(18)

 とノ−トに書き留めたが、よく考えてみると、「言葉」は数千あり、文字もいろいろあるから、その土地土地で使い慣れたものが、その社会で通用しているのであろうと思った。

 もっとも「数」として、「1と2と、あと沢山」というところもあるという記憶もある。

 緒方富雄先生から戴いた「語源ギリシャ語法・医学のなかのラテン語」にも「数」のことが書いてあった。

 昔の時計に記憶があるが、1は”I”、5は”V”、10は”X”であり、年号に出てくる、100は”C”、500は”D”で、1000は”M”であった。

 「イチ・ニ」で体操を、「ひ−・ふ−・み−」で母を思い、「ひとつ・ふたつ・みっつ」は東京弁であったが、ここ津軽弁では微妙に発音は違い、文字(”’”であらわす)としてではあらわし難い「’ひ’とつ・’ふ’たつ」である。

 フランス映画「制服の処女」で「’アン’・’ド’」があった記憶があり、ドイツ語を学んだとき「’アインス’・’ツワイ’・’ドライ’」であった。マ−ジャンでは知らず知らず「イ−・アル・サン・スウ」を覚えた。

 英語では「one・two・three」で、どうして「ワン・’ツウ’・’スリ’」というのかと考えたことがあった。

 言葉はそれぞれの音によって、それぞれの地域で、その意味を伝えてゆくものだと思う。それが文字になったのであろう。

 海外旅行に出かけたとき、国々で通貨はことなり、勘定の仕方・計算そしてお札を出して”おつり”を貰うときの”心得”を学んだものだった。

 デイジタル(D)のもとは手足の指からの発想とあったが、理解できることである。

 インドで「0」の概念ができたとあったが、どうやら「1・2・3」とアラビヤ数字が世界共通文字になってきた印象である。

 日本人は”九九”のおかげか、計算は早かったようだ。と思っていたら”三桁”の暗算がおとなり中国で流行っているとかニュ−スが先日あった記憶がある

 大分前、科学の世界でCGS単位が国際的に認められてきたあと、血圧のそれまでの「水銀柱のmmHg」であったのに、「kPa」(キロパスカル)で表すことになった。WHOのレポ−トには、「140ミリ水銀柱・90ミリ水銀柱」に「18.7キロパスカル・12.0キロパスカル」と書かれるようになったが、世界医師会など医学会では相変わらず水銀柱の単位を用いているのが現状である。

 野球にしろゴルフにしても「伝統的」である。

 「伝統」とは人の心を支配する。

 近ごろ考えることに、「国」とか、「憲法」とか、「国連」とか、「六カ国協議」とか、「オリンピック」とか、「FIFAなどの世界大会」とか、「リ−グ」とか、今まで持ち越してきた「public(パブリック)」と、皆関連のあることなので、いずれ私自身の考えをまとめなければまらないと思っている。(20050731)

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