私の「衛生の旅」の中で今までいくつかの記憶にのこる言葉や文章を書いたことはあるが、ノ−トに書き留めておいたもので今なお頭にあることを書いておこうと思った。
その1
夏目漱石の草枕に次ぎの文章があった記憶がある。
「山路を登りながら こう考えた 知に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい」と。
最近の話題として自民党離党者の復党問題があるが、ある方は「理」をいい、ある方は「情」を述べていた時に思い出した。
本名夏目金之助は複雑な家庭の事情に育ったようだが、なぜ「漱石」という「負け惜しみの強いことの例え」といわれるペンネ−ムを使うようになったのかと思っていたら、帝国大学時代に正岡子規との出会いがあり、子規の数多いペンネ−ムのうちの一つを譲りうけたのだとあった。正岡子規が近く生誕150年を迎えるという「日本」新聞を創刊した弘前出身の陸羯南(くが・かつなん)のもとで文芸欄を書いていたとのことである。このような例を知ると、人と人との結びつきの不思議さを思う。
いつだったか教育TVで中世の絵画の放映・解説を聞いていたとき、バチカンの「署名の間」を飾るラファイロ・サンテイ(Raffaello Santi)自身の代表作である「アテナイの学堂」(de Die Schule von Athen)のことが記憶にある。
その中でプラトン・アリストテレスが描かれており「ロゴス」とか「エトス」と共に記憶が甦るにである。
夏目漱石が何故前記の文章を小説に書いたのかは分からないし、調べたわけではないが、ロンドン留学中にヨ−ロッパの文明にふれる中でそれらに影響を受けたのではなかと勝手に思ったのである。それにしても「とかくに人の世は住みにくい」といいはなすとことは文学者の自由か勝手なものだとの氣が自分としては思うのである。(20061212)
その2
朝起きてテレビをみたら、今話題の可愛いタレントさんが、インドへいって「驚いた話」をしていた。
何を「驚いた」かというと、乗った汽車のトイレが、地面に”つつぬけ”になっていることだという話であった。「現場の写真!」を見せて喋っていた。
この話を聞いたとき、昔読んだ夏目漱石の「虞美人草」かの一節に「驚くうちは楽しみがある」とかいった会話があったことを思い出した。場面はたしか「博覧会」があっての場面ではなかったか。小説家がそれから話を展開するのであろう。私には奇妙にその言葉だけが記憶にあるのだ。
ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を覗いて驚き、ニュ−トンがリンゴが木から落ちるのをみて驚いたのではなかったのか。
今から4,50年前、秋田の農村を血圧測定で歩いたとき、持ち合わせの血圧計では測定できない位血圧が高い人がおり、一方弘前近郊の農村では「普通といおうか、低いこと」に「驚いた」自分ではなかったのか。
丁度そのころ日本の汽車のトイレも今のインドなみであったと思う。
そのことに興味をおぼえた学者がいた記憶がある。生理学者らしく「赤インキ」をながして、どれだけそれが飛散するかを紙をはって調べたことが話題になった。結果はすこし後ろの反対側によく飛んでいたという記憶であるが。
便所のそばに井戸があって、排泄物をまた吸い上げて「自給自足!」とか漫画の標題にあった時代である。東京の排泄物を船につんで太平洋の黒潮まではこんでいた時代である。それをアメリカからきた飛行機からみて「オ!イエロ−ライン!」といったとか、横山さんかの漫画にあった。
ソ連では着いた列車の排泄物をホ−スで一気に水をかけ流していた風景をみた記憶がある。大ざっぱと云おうか大陸的だと思った。
汽車の排泄物から伝染病がはやったかの報告は記憶がないが、新幹線ができたころだったか、「蓄積型」になったのではなかったか。
先日来話題である「ポロニウム」事件でロンドン空港で足止めになった航空機をみると、「蓄積物」から検査しているのでがないかと考えたりするのである。(20061213)
その3
先日斉藤茂太さんが享年90歳で亡くなったという。
父親が斉藤茂吉であって、かつて長崎医専の精神科の教授で歌をよくする方と認識していた。
いつだったか
「日に幾度にても 眼鏡おきわすれ それを軽蔑することもなし」
の句におめにかかった時、丁度自分のことを読まれているようで、さすが精神科の教授の句だと思ったのである。とくに最後の「軽蔑することもなし」は大切な言葉だと思った。
その後何年たった頃だったか、大学の図書館で岩波の「図書」の座談会かの記事の中で次男の北杜夫さんがオヤジの句の中で印象をもったものとしてあげている句があった。
「Munchen にわが居りしとき 夜ふけて陰(ほと)の白毛を 切り棄てにき」
医学教育を受けたものの選句かと思った。(20061214)