年賀状から

 

 年賀状をまだ戴くことがあるのだが、あまり達筆なので判読できなかった話題から書いておこうと思う。

 たまたま親戚からのものであったからか、家内が「氣」になるからと、「七十・・・・」を手がかりにコンピュウタ−で調べていた。

 「論語」の中の一つ「為政第二の四」に「七十而従心所欲、不踰矩」(七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず)がらの引用であることが分かった。

 「矩を踰えず」は(のり(法)をこえず)(心のおもむくままみ行動しても、道理に違うことがなくなった)(人の道から外れることなく生きる)という解説があった。

 昔の方は「四書五経」を小さい時から学んだそうだが、旧制高等学校の教育を受けなかったのでいつも「教養が無いんだから!」と批判を受ける身ではあるが、よく引用される言葉も分からないことが多い。今度の文句もすぐには判読できなかった。

 今度再認識したのは、「為政には八十歳には言葉がないこと」また「論語」そのものも「孔子」が書いたのではなく、その弟子どもがまとめたものであることであった。またその解釈も人によっていろいろであった、「論語」をどう読むかということもあることであった。

 このことは「キリスト教」も「仏教」もご本人が書いたものでなく、「流派」がそれぞれあることと同じではないかとの印象であった。

 「論語」というと大分前亡くなった西川慎八教授が「六十歳」になったときか「耳順」という題でまとめた本を戴いたとき、「修養がますます進み・・・」「聞くことが直ちに理解でき・・・」「人の言うことを逆らわないで聴けるようになり」と色々解釈があり、西川先生がどんな理解によって書いたのかと頭に思ったことを思い出す。

 前に増田四郎先生の本(歴史する心」創文社版、昭42)から私ノ−トに書き留めた言葉があった。

 「頑固と長寿」のところであったが、「論語の(学即不固)(学べば即ち固カタクならず)の意味として、一見頑固にみえるが、実は自然の理法にかなった独自の呼吸をのみこんでいるという意」「最も生き心地のよい生き方の主張にほかならない」とあった。

 丁度深夜放送で耳にはいった「ことわざ」「いろはかるた」にも時代的に色々あり、その解釈も色々だという話とだぶって、HPに入れておこうと思ったのである。(20070113)

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