学会に思う

 

 第77回日本衛生学会総会の分厚い講演集が送られてきた。

 学会の名誉会員だから送られて来るのだけれど、今はもう出席する意欲はわいてこない。 「ああ学会シ−ズンなのだな!」と、急に学会のこともろもろ思い出したことを書いておこうと思った。

 「学会とは何んぞや」という問題も考えたこともあったが、今さら「現役」ではない自分がかれこれ言っても始まらない。今の学会員が考えることだと思うのが私の考え方である。

 日本衛生学会とは戦後慶應義塾の医学部へもどってからのおつきあいだが、「学会とは」ということは、考えたことはなかった。

 弘前大学へ赴任して、助教授から教授になって、自分の研究の成果を発表する場として、いくつかの学会へ加入し、投稿し、いくつか受諾され、公刊できた思い出があるだけである。

 日本衛生学会の会長を「自分で売り込んだ」「運動した」わけではないが、引き受けないかという話がきたとき、「推薦して下さった方々がいることを」考えて、第35回の総会を昭和40年5月弘前で開催することになった。その年はさくらもおそく、さくらとりんごの花が一緒にみられた年であったことが思い出される。

 その機会が私に「学会とは」を考えさせたきっかけであったと思う。

 今その記録をみると、私より前の学会長はすに亡くなった方々であることがわかる。

 丁度9月出発の海外研究が認められていたこともあって、後始末など先日亡くなった武田壌寿君らがよくやってくれた思い出がある。

 

 今度送られてきた部厚い講演集をみると、係りの方の努力のあとが伺われる。

 「印刷所」は収入があって、よろこぶ出来事ではあるが、「IT」革命のなかにある時代として、すこし時代遅れの感があるのは私の個人的な印象である。

 招待講演の中に「,Max von Pettenkofer(1818-1901)」があるのには、驚いた。亡くなった北博正先生が学会長をやられたときの講演が「P・・・・」であったことを思い出し、ミュンヘンで「P・・・」の墓をさがし求めたことを思い出すからである。

 この3月25-26日に学会が大阪で開かれるという。

 とここまで書いたら、昭和33年に弘前大学医学部の卒業生から、卒業50年の同窓会への案内状がとどいた。「ああ!はやいものですね、当日まで生きていたら、喜んで出席させて戴きます」と返事を出した。(20070325)

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