私の場合、気がついた時には小学校(慶應義塾の幼稚舎)に入っていた。親の「レ−ル」にのっていたといえる。
中学校(普通部)・大学予科・大学と、入学試験もなく、世にいう「エスカレ−タ−」にのっていたのである。
いわゆる「反抗期」には記憶がない。「よい子」であったのであろう。
中学校から大学への進路をきめるとき、兄と話あった記憶はある。その時のことは前に書いたので重複はさける。
大学を卒業する昭和18年頃は、世は「非常時」であり、健康な男子にとって、選択の余地はなかった。医学部卒業生は「陸軍の軍医」か「海軍の軍医」かである。私はいろいろな理由から海軍を選んだ。その理由を述べることは本題からはずれるのでここではふれない。
「敗戦」の記憶は深くあると思う。これからどうして生きてゆくかと一人で考えざるをえなかった。 自分で「レ−ル」をひいてゆくほかなかったからだ。
退職にともなう若干の金があったから、当分はくらせる、その間勉強のし直しだと考えた事は事実だが、世は「インフレ」になって、金銭的価値が変化した・・・。
こんなことを、くだらない事を書いてもはじまらない。
丁度先日「学会に思う」に書いた「ペッテンコ−フェル」についての本「知られざる科学者」(カ−ル・ウイ−ニンゲル:植木絢子訳:風人社)が学会長の森本教授から謹呈を受けた。
森本教授の「序」の内容も面白く読ませていただいたが、前々から疑問に思っていた「ペ・・・」の死にいたる過程がおぼろげながら判読できたことは幸いだった。私自身もその年齢になったこともあってと思う。
前にも書いたことなのではあるが、「ペ・・・・」は、「衛生学の大先輩」なのである。それは「衛生学」の「レ−ル」を始めてしいた方なのである。
ミュンヘン大学にはじめて「衛生学講座」を設立してその教授を勤めたといわれるが、ドイツ語でHgiene(ヒギ−ネ)が用いられていると思われるが、ギリシャ時代からの信仰にでてくる「健康の女神」に由来しているのではないかと考えられるが、その詳細はわからない。
ただ本の中に「古いギリシャの言い伝えに、(科学とは測定することである)ということをペッテンコ−フェルは知っていた」という記述がある。
また「疑いもなく(科学としての衛生学)を確立したことで高い名声を得ているが、自分は衛生学の創始者であるという言葉が彼の口から聞かれたことはない」とあり、「民衆の健康を促進するための努力はすでに何千年前から古い文化をもつ民族の間で行われてきた」ともあった。
「ペ・・・が活躍した十九世紀、かれがこの衛生学的な問題を、総合的に解決したと言えるだろう。多くの医師が片手間の仕事としてみなしてきた事柄が、今や医学の領域で重要な中枢の一つを占めるようになり、民衆の健康を維持するために、前もって病気を予防することの重要性が認識されるようになったのである」とも本の中に述べられていた。
「衛生」は長與専斎がその名前を「荘子」から取ったことは記録から明らかである。
緒方正規がペッテンコ−フェルのもとで学んで帰国後、東京帝国大学医学部の衛生学講座の初代教授になったことも明らかなことである。
かくして日本の「衛生学」のレ−ルはひかれたのであるが。(20070401)