華僑と華人

 

 今朝4月23日のシンガポ−ルからの通信として「華僑と華人」と「愛国心」の話題があって、現代の問題としての”移民問題”また”出稼ぎ!”とのかかわる問題でもあり、自分が今弘前にいることとからみあって、HPに書いておこうと思ったのである。

 ”華僑”という言葉はなんとなく心得ていたが、”華人”はその概念が分からなかった。

 華僑(かきょう)とは、「中国・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称であり、「華人」とは移住先の国籍を取得した中国系をさす言葉(中華人民共和国政府の定義)とあった。

 シンガポ−ルでは中国から移住して来た人でそこに土着した中国人を”華人”して、シンガポ−ル人として、華僑と「区別」ていること、すなわち「多くの国から移民してきた人によって繁栄してきた”シンガポ−ル人としての認識をもち”、それを”愛国をもつ人”であってほしいとの知恵ではないかという話であった。

 アメリカの”チャイナ・タウン”とか”リトル・トウキョウ”という言葉を思いだし、戦争中に在外邦人がうけた仕打ちを思い、戦後の処理が行われたことを思い出した。

 青森から”出稼ぎ”に出かけた方々がどんな気持ちで出かけたのであろうか。

 出稼ぎが第何次産業とかいう言葉があった記憶がある。青森としてはそんな面があったのであろう。

 ”故郷に錦をかざる”という言葉がある。それが目標に出かけるのであろうか。また”故郷をすてて”という言葉もある。

 生まれ育ったところにどんな印象を記憶をもつかは、人それぞれではないだろうか。

 生まれ育ったところが”あずましい”なら、生涯そこで生活して誰も文句をいいようもない。そんな人々がいたるところにいる。

 そこで生活出来なくなったら、よそへ行くしかない。

 そこで生まれた子供は、そこで生活してゆく道を選ぶか、他にもっとよい生活があると考えるか、何か”夢”をもち、何か”目標”をもったとしても、誰も文句はいえないと思う。

 欧米の国々でいま”移民問題”があるようだが、昔は”奴隷”であった時代もあったが、今は”移民”である。

 例えばアフリカからフランスへ移民してき人々、その子孫達はフランス大統領に誰を選ぶのであろうか。昔歩いた国々で経験したことを思いだしながら考えた。今私はこの弘前にいる意味を考えてみたのである。(20070423)

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