私の80年来の記憶が完全に間違いであったことについて書いておこうと思。
6月7日付のYさんからのメ−ルから話が始まった。
「失礼ながら 突然メ−ルをいたします・・・」
「先生の「幼稚舎と綱町」「私と三越」を拝読しますと、三田綱町に上野医院があり、その前を通って省線田町駅に出たとあります」
「この上野医院は徳川邸を過ぎたところにあり・・・」
「この上野医院の所在を図書館で調べたのですが・・・分かりません」
「なぜ上野医院かと申せば、加賀乙彦の自伝的代表作(永遠の都)に出る、時田医院のモデルではないかと思ったからです。」
「主人が元海軍軍人で、日露の海戦できんし勲章をもらったという記述が、先生のご文章と、加賀作品の設定で、共通している点であります。」
「・・・三田界隈の様相は一変してしまい・・・昔どこに何があったか・・・もしお差支えなくば 上野医院は今のどのあたりに相当するか、ご教示くだされませんか。」
すぐ返信した。(6月8日9時)
「メ−ル拝見しました」
「加賀之彦の作品は読んでおりません」
「上野医院は小生のおぼろげな記憶しかありませんが・・・」「小さいときからのかかりつけの医者でした」
「先日は突然メ−ルをいたしまして・・・」(6月15日8時)
「その後、火災保険特殊地図旧35区(都市製図社,1987)芝区・中(No.20-2)を調べました。昭和11-12年当時の地図であります」
「関連の地図など・・・お送りしてもよろしゆうございますが・・・」
「速達便15日午後2時到着」
「ゆっくり拝見させていただきます」「とりあえず受け取りのご返事まで」
「資料拝見しました」
「芝区54(6-6)が一番記憶にぴったりのものでした」
「徳川邸を出たところの(野上医院)(82)です」
「私が(上野医院)と前に書いたのは、完全に思い違いでした」
「6つ違いの兄に今確かめたところです」
「申しわけありませんででした」
「HPを訂正しておきます」「とりあえずご連絡まで」(6月15日16時)
「下記メ−ルにてのご教示、まことにありがとうございます。」
「先生のお蔭で、まず(野上医院)と確認することができまして、これほど嬉しいことはございません。これぞリサ−チの醍醐味と申すものでありましょう。・・・・」(6月15日23時)
「追加:今朝起きて 芝区54(6-6)(昭和12年)の中の(26の佐々木)が小学校から大学卒まで住んでいた家です。 生まれた場所はその近くですが、地図上では指摘できません」「近くに記憶にあるお名前がみられますが・・・」
以上が今回の出来事の概略である。
80年来の記憶が「地図上の記録」と違い、完全に私の記憶が間違いであったことが確認出来たことであった。
科学者の”はしくれ”と自認している自分としては、貴重な体験であった。
科学上の論文の誤りはその誤りに気が付いた時点で訂正しなくてはならない。いくつかそんな記載をした記憶はある。「校正おそるべし!」という言葉にも記憶がある。
「衛生の旅」(1−7)を私家出版したあと、電子出版を始めた頭書に「覚書について」書いたことを思い出す。また「覚書・記憶・そして・・・」と書いたことも。
「HP」の間違いにつていくつかご指摘戴いたことがあり、その都度訂正してきた。
今回話題になった「上野医院」については、始めてのことであった。
「小説」上の記述はそれが「事実の記述」と思うのが間違いであろう。「フィクション」という言葉もある。しかしまた「ノン・フィクション」という言葉もある。しかし「小説」」は所詮「小説」である。しかし小説に書かれたことを「事実」として、自分の意見に取り入れている方は世の中に溢れているのが現実であろう。
今回の出来事のはじめは「私の記載」に始まっているようである。それを「事実」として受け取って戴いたことは「私のHP」を書く立場からいって感謝しなければならないだろう。
だがいくつか書き、それを読んで下さった方が大勢おられるに違いないけれと、その記載に間違いの指摘がなっかったことは不可思議と思うほかない。
「ああ間違って書いているな!」とその不勉強さを思っておられるかもしれない。
また人は自分が「意識」したものしか「頭」に入らないものかとも思う。
今回のメ−ルのやりとりの中で「きんし勲章」の活字が私が間違っていた(金賜でなくて金鵄勲章)ことに気がついた。
またメ−ルを戴いたY先生のことも、ご自分の自己紹介をして戴いたが、また「三田評論」に写真入りの方であったことも、前に見て、読んでいたのに、「認識」はしていなか「チたことも書いておかなくてはならない。(20070617)