クリストフ・ヴィリバルト・フォン・グルック
Gluck, Christoph Willibald Ritter von
オーストリア 1714 - 1787
作曲家。父は森林管理官。
1730年頃、実家を離れ、プラハに出て音楽家として生計を立て、大学にも通ったと思われるが、その勉学がどのようなものでどれくらいの期間だったのかははっきりしていない。
1735年末頃、ウィーンへ移り、ロプコヴィツ侯の宮廷楽団に加わる。
1736年、貴族メルツィと共にミラノに行き、サンマルティーニの弟子となる。1741年、ミラノの大公宮廷劇場で最初のオペラ「アルタセルセ」を上演。1742〜45年、7作のオペラを書き、ミラノ、ヴェネツィア、クレモナ、トリノで上演された。
1745年、ロンドンへ招待され、1746年オペラを発表、ヘンデルと共に演奏会を催すなど活躍。
その後ドイツでミンゴッティのオペラ劇団に加わる。
1748〜49年、ハンブルクに滞在、続いてコペンハーゲンでミンゴッティ一座の楽長となる。
1751〜52年、ロカテッリ一座の楽長。
1752年ウィーンに落ち着き、ザクセン・ヒルトブルクハウゼン侯ヨゼフ=フリードリヒの音楽顧問、宮廷楽団のコンサートマスターとなる。
1754年ウィーン宮廷劇場音楽監督。
その後多くのオペラを書き、 1756年には「アンティゴノ」でローマ教皇から「黄金拍車の騎士」の称号を授かった。
1774年、ウィーンで「皇王室宮廷作曲家 kaiserlich-koniglicher Hofcompositeur」となる。
この頃から、かつての教え子である王妃マリー・アントワネットからの要請で、パリへ何度も赴き、「オーリドのイフィジェニー」をはじめとする新作のオペラの創作し、フランスオペラに新風を吹き込む。
1779年、ウィーンへ戻り、卒中の持病のため引退生活を送った。
イタリア語のオペラを改革し、フランス・オペラではフランスでのオペラ事情を保ちつつ新たな世界を拓いた。
オペラ改革は、序曲は話の筋からも旋律的にもドラマと結び付け、本来の意味での劇へのプロローグとした。レチタティーヴォ・セッコではなくレチタティーヴォ・アコンパニャートを多用するスタイルをとり、アリアとレチタティーヴォのつなぎ方は自然に、言葉に合った自然なメロディとし、合唱を重用し、舞踊もドラマと一体化して意味あるものとした。
代表作:
◆イタリア・オペラ
アルタセルセ Artaserse
デメトリオ Demetrio
デモフォオンテ Demofoonte
ティグラーネ Il Tigrane
ソフォニスバ La Sofonisba
イペルメストラ Ipermestra
ポーロ Poro
イッポリト Ippolito
巨人たちの転落 La Caduta dei Giganti
アルタメーネ Artamene
エルコーレとエベの結婚 Le Nozze d'Ercole e d'Ebe
認められたセミラミデ La Semiramide riconosciuta
神々の争い La Contesa de' Numi
エツィオ Ezio
イッシピーレ Issipile皇帝ティートの慈悲 La Clemenza di Tito
中国のご婦人たち Le Cinesi
踊り La Danza
証明された無実 L'Innocenza giustificata
アンティゴノ Antigono
羊飼いの王 Il Re pastore
テーティデ La Tetide
オルフェオとエウリディーチェ Orfeo et Euridice
混乱したパルナッソス山 Il Parnaso confuso
王冠 La Corona
アルチェステ Alceste
アポロの祭 Le Feste d'Apollo
◆フランス・オペラ
偽りの女奴隷 La fausse esclave
メルランの島 L'Isle de Merlin
包囲されたシテール島 La Cythere assiegee
大騒ぎ Le Diable a quattre
魔法の木 L'Arbre enchante
改心した大酒飲み L'Ivrogne corrige
だまされた回教の裁判官 Le Cadi dupe
思いがけない巡り合い La Rencontre imprevue
オーリドのイフィジェニー Iphigenie en Aulide
オルフェとユリディス Orphee et Eurydice
アルチェステ Alceste
アルミード Armide
トーリドのイフィジェニー Iphigenie en Tauride
エコとナルシス Echo et Narcisse
作品:オペラ名曲辞典
作品:管弦楽曲DB
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