アルノルト・フランツ・ヴァルター・シェーンベルク
Schonberg(Schoenberg), Arnold Franz Walter
オーストリア 1874 - 1951
作曲家。ユダヤ教の家庭に生まれる。8歳でヴァイオリンを始めるが、作曲はほとんど独学。成人してから初めてツェムリンスキーに対位法を学ぶ。ツェムリンスキーは後に義兄となった。
父の死後、1891〜95年、銀行に勤めるが、その銀行が倒産、その後シュトッケラウで合唱の指揮やオペレッタの編曲などをしていた。
1898年、ルター派プロテスタントに改宗。
1901年にツェムリンスキーの妹マティルデと結婚、ベルリンに移る。R.シュトラウスから注目され、シュトラウスの後押しもありリスト賞を受賞、シュトラウスの世話によりシュテルン音楽院で教授の職を得る。
1903年、ウィーンに戻り、オイゲニー・シュヴァルツヴァルトの改革学校で教える。弟子にベルク、シュタイン、ウェーベルンらがいる。マーラーと知り合い、後援を受けるようになる。
1904年、ツェムリンスキーと共に「創造的音楽家協会 Vereinigung schaffender Tonkunstler」を設立。マーラーが名誉会長となる。
幻想的な絵画を描き、抽象絵画のカンディンスキーのグループ「青騎士」に参加。
1910年、ウィーンの音楽アカデミーで作曲を教える。
1911年、「和声学」を執筆。同年、ふたたびベルリンに移る。シュテルン音楽院で指導。
第1次世界大戦中、2度オーストリア軍に従軍、1917年にウィーンに戻り、作曲のゼミを指導。
1918年、「私的演奏協会」を設立。このメンバーには、弟子のベルク、シュトイアーマン、ウェーベルンらがいた。
1920〜21年、アムステルダムで音楽理論のコースを指導。
1921年頃から十二音技法を用いた最初の諸作品群が出てくる。
1925年、ブゾーニの後継者としてベルリンのプロイセン芸術アカデミーで作曲のマスタークラスを担当。
1933年、ナチスの台頭を警戒しフランスへ移り、ユダヤ教に改宗、米国に亡命。ニューヨークのマルキン音楽院とボストンで教授となる。
1934年にはロサンジェルスに移り、1935年から南カリフォルニア大学、1936年からカリフォルニア大学ロサンジェルス校でも教える。
1940年にアメリカ国籍を取得。
米国に移ってからは、12音技法と共に調性音楽も手がけた。20世紀前半を代表する革新的な作曲家で、後期ロマン派、無調、12音技法という作風は他の作曲家に強い影響を与え、20世紀音楽を方向づけた。
代表作:
ピアノのための6つの小品(4手)
3つのピアノ曲 op.11
66つの小さなピアノ曲 op.19
5つのピアノ曲 op.23
ピアノ組曲 op.25
レチタティーヴォによる変奏曲 Variationen uber ein Rezitativ op.40(オルガン)
弦楽三重奏曲 op.45
弦楽四重奏曲(5曲)
管楽五重奏曲 op.26
浄夜 Verklarte Nacht op.4(弦楽六重奏)
室内交響曲 第1番 op.9
室内交響曲 第2番 op.38
交響詩 ペレアスとメリザンド Pelleas und Melisande op.5
5つの管弦楽曲 op.16
ヴァイオリン協奏曲 op.36
ピアノ協奏曲 op.42
主題と変奏 Thema und Variationen op.43(管楽オーケストラ)
◆声楽
S.ゲオルゲの「架空庭園の書」より15の歌 op.15
月に憑かれたピエロ Pierrot lunaire op.21
ナポレオンへの頌歌 Ode to Napoleon op.41
ワルシャワからの生き残り A Survivor from Warsaw op.46
グレの歌 Gurrelieder
◆著作
和声学 Harmonielehre(邦訳「和聲學 第1巻」山根銀二訳)
和声の構造的機能 Structural Functions of Harmony(邦訳「和声法」上田昭訳 音楽之友社 1968)
初心者のための作曲入門 Models for Beginners in Composition(邦訳「作曲法入門−初めて作曲を学ぶ人のための曲の範例」中村太郎訳 カワイ楽譜 1966)
作曲の基礎技法 Grundlagen der musikalischen Komposition(英語原本 Fundamentals of Composition、邦訳「作曲の基礎技法」山県茂太郎、鴫原真一訳 音楽之友社 1971)
作品:管弦楽曲DB
作品:オペラ名曲辞典
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